第519回 慈しむ

 平成15年 1月1日 〜

妙念寺電話サービスお電話ありがとうございます。

新しい年を迎えました。
今年の年賀状は、慈悲の慈の文字、いつくしむの字を
書かせていただきました。

ご本山、西本願寺で出版されている「大乗」という
月刊誌の中に、「幸せということ」という梯実円先生の
文章の言葉をお借りしたものです。


その文章とは

「私どもは、幸せとは自分が楽をすることだと思っています。
どうしたら自分が幸せになれるかということばかり追い求めて、
人の幸せなど本気で考えません。自分が幸せになる
ためには、平気で人に苦難を押しつけさえします。

幸せになろうとして、互いに苦難を押しつけ合うならば、
結局は幸せになろうとしてお互いに不幸への道を歩んで
いることになります。そのことを仏さまは、人びとは逆さまの
考え方をしていると誡められたのです。


 まことの生き方とは、苦難は私が引き受けるから、
あなた方は幸せになってくださいと願いながら、
力の限り働くことです。それを慈悲の実践といい、
仏道というのです。

慈悲の『悲』とは、あらゆる『いのち』との響き合いのなかで、
人びとの悲しみを共に悲しみ、人の痛みを我が事のように
共感する心であり、その大悲の必然として、人びとの幸せを
心から願っていくことを慈悲の『慈』というのです。

それが仏陀の本質ですから『観無量寿経』には
『仏心とは大慈悲これなり』と説かれ、
善導大師も『仏道を学ぶということは、仏の大悲心を
学ぶことである』と仰せられたのでした。


 念仏の行者とは、阿弥陀如来の大悲の誓願に
救われた人ですから、苦しみは人に押しつけても、
自分だけは幸せになればいい、というような思いは、
まことに恥ずかしい、申し訳のないことであると
知らされた人です。それゆえ念仏者は、ほんの少しでも、
分に応じて、人びとの幸せのお役に立てるような
生き方をしようと志す人でありましょう。」という文章です。


本当の幸せは、自分一人だけの幸せではなく、
阿弥陀如来の大悲の誓願に救われた人として、
苦しみは人に押しつけ、自分だけは幸せになろうなどとは、
まことに恥ずかしい、申し訳ないと、ほんの少しでも、
それぞれの分に応じて、人びとの幸せのお役に立てる
ような生き方をしようと志し、行動したいものです。


妙念寺電話サービスお電話有り難うございました。
次回は、1月8日に新しい内容に変わります。