第525回 人間存在の意義

平成15年 2月 13日〜

妙念寺電話サービスお電話ありがとうございます。 
最近の日本の来世観は、混乱を極めているといって
よいでしょう。
新聞・テレビなどのマスコミの報道を見ていても、
亡くなった人は、天国へ旅立ったとか、お墓の
なかでねむっているとか、草葉のかげから見守って
いるとか、言っていることはばらばらです。


おそらく言っている人にも、わかっていないのでしょう。
知識人といわれる人の葬式でも、「冥福を祈る」という
ことばが頻繁につかわれます。

信じていない冥界(あの世)での幸福を祈るというのです。

スペースシャトルの事故でも、日本の総理大臣は
ご冥福を祈るとのメッセージを送ったといいます。


昔の日本人は、「お浄土」という行き先をはっきり
もっていました。
本当に信じていたかどうかは別問題として、一応
「死んだらお浄土」と考えていたのではないでしょうか。


それが今は、天国へゆくのやら、お墓でねむるのやら、
草葉のかげでうろうろしているのやら、はっきりしないと
いうのが一般です。

どうしてこうなったのでしょうか。
その理由は、何といっても近代的な世界観の普及です。 
それでは、宗教的な世界観・宇宙観というものは、
まったく無意味なものになってしまったのでしょうか。


必ずしもそうは言えません。
確かに昔の人は、実証的に地獄や極楽の存在を
説明したわけではありませんが、そうした宗教的
表現には、深い意味があったと考えなければなりません。 
それはどういうことかと言えば、人間のこの世界に
おける位置づけです。


人間はこの世界において、いかなる意味をもって
存在しているのかという、人間自身の存在の意味を、
宗教的世界観は語ろうとしていたのです。


 現代の世界観や宇宙観では、そういうことは
明らかになりません。人間も他の一切の生物も、
無から生まれて無に帰ってゆく、泡のような、
つかの間の存在にすぎません。


仏教では、この世に人間として生まれてくるには、
五戒(五つの戒律)をたもたなければならないとされます。


そして、何のために生まれてきたかと言えば、
この迷いの境涯から解脱するためというはっきりした
目的をもっているとされたのです。


 現代の人間が、生きている意味を見うしなったり、
生き甲斐がわからなくなったりするのも、当然のことです。


そういう意味を与えるような世界観がなくなってしまったし、
この世界自身が、存在の意味をなくしてしまったからです。


現代において、科学的世界観を捨てて宗教的世界観を
とるということはできないでしょうが、宗教的世界観が
どういう意味をもっていたかということをあらためて
省みるということは必要です。


それによって、人生を意味づけるあらたな見方を
確立することがめざされるべきではないでしょうか。


妙念寺電話サービスお電話ありがとうございました。
次回は、2月20日に新しい内容に変わります。


  「往生浄土」ということ
    
中央仏教学院同窓会誌 法の友 第34号

        石田慶和師の文章を参考にしました。