第534回 生はおどろき

 平成15年 4月17日〜

妙念寺電話サービスお電話ありがとうございます。

こんな文章に出会いました。
築地本願寺の輪番であります、中西智海先生の
文章の一部です。


『私はかつて亀井勝一郎さんの講演をきかせて
いただいたことがあります。


その中で次のような、くだりがありました。
一人の男が「自分は身体に自信がある。
どこも悪いところがない」と胸をポンと叩いたそうです。
そういう人はたいてい頭が悪いんですよね。と。


身も心も健康であることは大切なことです。しかし、
健康そのものは威張るものではないでしょう。それは
有り難いことなのです。


ところで「病気になったばかりに、私の人生は
無茶苦茶になった」などという言葉がよく聞かれます。

しかし、このような、うけとめ方だけでは、人生の深さは
見出せません。


 私は、次のような言葉に出会いました。
「病をいただいて、いままで見えなかったものが
見えてくる人生を教えられました。
病をいただいて、感じることが出来なかったことに
深く感じる人生に会わせていただきました。
病をいただいて、あたりまえであると思っていたことが、
実はおどろきであることに気づかせていただきました。」と。


 健康と病気、若いと老い。
思えば人生は単純に比べて、一方にだけねうち、
すなわち価値があるという人生のうけとめ方は、
まことに不徹底であるといわねばなりません。


実は、私は、正しい宗教とは、人生の意味を明らかにし、
人生を意味づけるものとうけとめています。


 まさに仏教は「老」「病」「死」をただしく見て、
「若」にも「老」にも「健康」にも「病気」にも意味づけをし、
そして「生」にも「死」にも意味づけのできる人間になる
ことを教えたものであるといわねばなりません。

まことに「生きているのはあたりまえで、ひょっとすると
死ぬのではないか」ではなくて「死は必然であり、
生はおどろきである」ことを真正面から教えるのが
仏教であります。


死すべきものを死すべきものとごまかさずにうけとめ、
朝、目が覚めたことも、あたりまえではなく、おどろきで
あったとうけとめる人間になることであります。


そうすれば、一輪の花との出会いも一羽の鳥の
鳴き声に出会うのもおどろきでありました。
そして、「死」の意味づけを徹底した教えが
「往生」であるといただきます。


 ただ死ぬのではなくどこまでも「往き生れる」のである、
永遠の真実の世界すなわち、常住の浄土の世界に
往き生れさせていただくのであります。


そして、浄土に往生させていただき仏に成らせて
いただくとき、自我への執れがゼロとなり利他行が
100パーセントのいのちとしてこの世の底を照らし、
はたらかせていただくのでありました。』


こういう中西智海先生の文章のごく一部を
ご紹介しました。


妙念寺電話サービスお電話ありがとうございました。
次回は、4月24日に新しい内容に変わります。


         在家仏教 平成15年5月号
           「意味」の世界より抜粋