第562回 自力の壁

 平成15年 10月30日〜

妙念寺電話サービスお電話ありがとうございます。
こんな文章に出会いました。

ご本山・西本願寺から毎月発行されている「宗報」という月刊誌の
巻頭に書かれた「自力の壁」という深川倫雄先生の文章です。


人は自分は賢いと思っている。愚者ではない。
聞いていて分からないと、訳の分からぬことをいうと思う。

若者が大先輩に反論する。自分の方が賢いのである。
この春、養老孟司という脳の医学者が『バカの壁』という新書本を出した。
おもしろい。


 人びとは自分の賢さの極限の向こうを知らない。
利口の上限の壁がある。その壁の向こうの考えの風光は知るべくもない。
壁より向こうの賢い人から壁を見れば、壁の向こうには愚者がいる。
バカの壁というのは賢い側からの話である。

自分は賢いと思っている人の、賢さの上限は利口の壁である。
自分に利口の壁があるとは考えない。利口の壁の向こうの賢い人は
バカの壁を知っている。

賢い人はバカの壁の向こうの人びととは、程度を下げた会話を
しているから、利口の壁の手前の人は賢い人と対等に話ができると
思っている。
この本の一部を私流に理解した。
おもしろい。


 他力念仏の話は、これに似ている。
凡夫は自力の壁の手前で議論している。
念仏は実は自力の壁の向こうの話である。

阿弥陀さまの智慧の世界である。凡夫が考えても自力の壁は
越えられない。



 法然さまは愚者になれと教えた。
善導さまの唯信仏語(ゆいしんぶつご)の教えである。
三部経を如是我聞せよという。考えてはならない。

聞こえたままに随うのである。仏語の前にあるかなきかの我が
智慧を捨てて、仏語の海に身を任せる。
愚者と思えというのではない。仏の側で凡夫を愚者と見込んであるのを
承(うけたまわ)る。その中に愚者の自覚が育てられてくる。

ご開山さまは、如来海の中に命終(みょうじゅう)するという。
利口の刹(くに)の命を捨てて、如来の本願海に身を投ずれば、
新しい生命が生まれると。


 自力の壁の手前は、私は賢いという世界である。
自力の壁の向こうは、仏さまに降伏して、仰せの通りでございますと
慶ぶ世界である。・・・・・


という文章です。

これは、勧学の深川倫雄先生の「自力の壁」という文章です。
私の経験、私の少ない知識だけで、理解しようとしても、とても
理解できないのが南无阿弥陀仏です。仰せのとおりでございますと、
慶び如来の本願海に身を投じさせていただき、南无阿弥陀仏を
口にする生活をさせていただきたいものです。


妙念寺電話サービスお電話ありがとうございました。
次回は、11月6日に新しい内容に変わります。

  宗報 2003年 10月号 より