第580回 人と人 人と仏

   平成16年 3月4日〜

妙念寺電話サービスお電話ありがとうございました。

こんな話を聞きました。

我々は人さまとおつき合いをして「この人はいい人だ」と
思われようと精一杯生活しています。


しかし、これはあまりほめたことではない。
仏法というものは、人間の交際を軽くしておる。
人間の交際というのは、私と人々との交際であって
「あれからよう言われたい。これからよう言われたい」と、こうなる。


その人間の交際、やめられはしませんが、人間の交際を軽くして、
私と阿弥陀さまの交際世界を重くするのが仏法、お念仏であります。
「こうしたら仏さまがお喜びなさるか、こうしたら仏さまがお悲しみか」
というやり方が仏法のやり方です。


「こうしたら人が悪う言やあすまいか、こうしたらあの人からよう
思われりゃすまいか」ちゅのが、人と人との交際であります。


途方もなく誉められた人間がおったところで、それはその人を
誉めた人の功徳ではあっても、誉められた人の功徳ではありません。


人を誉める人がおったら、誉める人の心が肥えていく。
人を悪く言えば、言う人の心から血が流れておるんだ。


誉められてもどうもない。貶されてもどうもないはずなのに、
そのはずなのに一生懸命になって、誉められたい、悪く
言われとうない、ということに心を使っておる


仏法に心を志すということは、なるべくそういうところに気を
配る心を遠ざけて、私と仏さまとの交際を重くするのが
仏法であります。

そのかわり人から「あの人はつんつんしている。つっけんどう」と
言われるかもしれません。言われたって、どうせ、その人と
つき合いをやめる日がくる。


どんな仲のよい人ともおつき合をやめる日がくるんです。

たった一人の旅立であります旅立ちだけが一人ではない。
今生きておるときから、だいたいはただ一人なんですね。


「私はつらい、こんなにつらい」
千万言ついやし喋っても、その通りには知ってくれません。

「誰か私の苦しみを知ってくれないか。」と言っても、
その通りには知ってはくれない。みんな言う。


その証拠に、私が泣き嘆くほどには人の心の苦しみを
受け持ったことがないじゃあないですか。


ただここへ、「衆生の苦悩はわが苦悩。衆生の安楽
わが安楽」誰もわかってくれない私の中に住み込んで
くださった南無阿弥陀仏の親さまであります。
だから人には言えんような心が動いた時、「ナマンダブツ、
ナマンダブツ」称仏六字即懺悔。

「以前はあんな心持ちじゃったが、近頃はご恩報謝、内々、
心に努力をしたところが、すこしゃあ如来さまのお好きな
方向に育てていただいたわい。」


「よかったなあ、こうして喜ばして頂く、これもお育てかい」。
称仏六字即嘆仏。


仏をほめ奉ることになるのです。

 妙念寺電話サービスお電話ありがとうございました。
次回は三月十一日に新しい内容に変わります。

深川倫雄和上のカプセルから