第596回 親さま

 平成16年 6月 24日〜

妙念寺電話サービスお電話ありがとうございました。
前回、西本願寺の時間のラジオ放送の一部分をご紹介しましたが、
今回も同じ三浦先生の文章の一部をご紹介します。


「親さま」という文章です。

私たちの宗門では「阿弥陀さま」のことを「親さま」とか「真実の親」とか、
言い表されることがしばしばあります。阿弥陀さまが「親」と呼ばれるには
それだけの意味があるようです。


 一般に、「親」という漢字の成り立ちから「木の上に立って見ているもの」と
いうことで、いつも目を離さないもの、遠くからでもいつも見つめているものを
親といわれることがよくあります。


子どもは、すぐに親から目を離し、また、離れたがるものですが、親は、いつも
子どもから目を離すことがありません。
いや、離すことができないのです。
また、もし、この目が届かないところにいても、心はいつも子どもの方を向いているのです。


 阿弥陀さまを「親」と呼ばせていただく一つの理由は、このことからきています。
阿弥陀さまも、私をいつも見つめていてくださいます。いつも私の存在に心を砕いて
くださっています。
これは、阿弥陀さまの「智慧」のはたらきの一つといえるのでしょう。


また、「親」は、子どもから頼まれなくても、子どもを育てるものです。
子どもに「どうか育ててください。」と頼まれたから子どもを育てているのではありません。


頼まれる前から、請われる前から子どもを育てるのが「親」なのです。

阿弥陀さまも、私たちが頼む前から、請う前から、慈しみ育て、「ほとけ」になってくれよと
はたらいているのです。


これを阿弥陀さまの「不請性」といい、「慈悲」のはたらきのひとつといえるでしょう。
さらに真実の親である阿弥陀さまは、子どもである私たちに対しての「願い」を持つ以前に、
「親としての願い」をもっています。


私たち人間も、子どもへ、それこそ数え切れないくたいの願いをもっています。
こんな人間になってほしい、将来はこうなってほしいと期待と希望を子どもに託すのは、
誰しもが思うことでしょう。
しかし、私たちは「親」である自らに、願いをかけることはあまりしないようです。


この子のために、まずどんな親になってやろうかと、この子のためにこれだけは
用意しようなどとは、あまり考えないものです。


本当の「親」とは、子どもへの願いをもつ前に「自らが、この子にふさわしい親であることを
願う」ものなのです。
阿弥陀さまを「真実の親」「親さま」と呼ぶのは、私たちの親になることを、
まず願われたからなのです。


(中略)

「子を持って知る親の恩」よく耳にする言葉です。
しかし、それだけでは、親の恩を知ったことにはならないと聞いたことがあります。
その子に、裏切られたとき、それでもなお、見捨てることができない親としての心情を
自覚したとき、初めて自らにかけられたほんとうの親の恩を知るのです。


「子に裏切られて知る、親の恩」とでもいうのでしょうか。

私たちが、阿弥陀さまを「親さま」・「真実の親」と呼ばせていただくのは、私たちを
いつも見つめ、私が願う前から慈しみ育て、私に願いをかける前に、自ら「親になることを
願う」存在だからです。


そして、その親を裏切りつづけるこの私が、親であり続けようとする存在、はたらきに
気づかされたとき、「親さま」と阿弥陀さまをいただくことができるのです。


逃げ回る私だからこそ、追いかけ、待っておいでになるのです。
裏切り通しの私だからこそ、裏切らないのです。


さらに真実である阿弥陀さまが、あらゆるいのちを見つめ、慈しみ、願われていることに
気づくとき、あらゆるいのちが、同じ「親」をもつ、私たちの「兄弟」であることにも
気づかされるのです。


阿弥陀さまを「親さま」といただくことは、親鸞聖人の御同朋、御同行のお心を
いただくことでもあるのです。


とあります。

妙念寺電話サービスお電話ありがとうございました。
次回は、7月1日に新しい内容に変わります。


本願寺出版社 みほとけとともに  第一巻  平成14年2月12日放送
      中央基幹運動推進相談員 三浦性暁師