第680回 一つの目印

 平成18年 2月 2日〜

妙念寺電話サービスお電話ありがとうございました。

佐賀の社会保険センターで、仏教講座の講師を勤めておられた
平野修先生の遺稿集が目に入りました。


その中に「往還二廻向の世界」というところを一部分、ご紹介します。

釈迦如来はお悟りをひらかれたのですから、要するに三界を出られた
かたです。
だから娑婆のことは、知らぬ顔をして放っておいてもいいわけですけれども
お釈迦さまは、五濁の三界を出て、しかも世界を捨てないという意味を
表明された、ここに仏教というものの始まりがあります。


この迷いの業の世界を出るという意味が、釈迦如来の一つの面です。
出て、しかも、その世界を捨てないというのが、もう一つの面です。


親鸞聖人は、その出るという面を「往相」とされ、捨てないという面を
「還相」とされました。


謹んで浄土真宗を案ずるに、二種の回向あり、一つには往相、
二つには還相なり。(教巻)


往相というのは、とにもかくにも、この業の迷いの世界を生き、これを
出るという意味が我々にある。これが、往相、往く相です。
しかも、出て、その世界を捨てない。その世界に戻る。そういう意味が
あるというので、還相と言われる。


念仏を信ずるということには、この往相と還相という意味が具わるのだと
おっしゃるのです。


ですから、「わしさえ助かればそれでよい」というのは、真宗ではありません。
長い仏教の歴史の中には、そういうことをいう宗旨もあるかもしれません。
ともかく自分さえ助かればよいのだ。
自分さえ平穏無事な心でおればよい。静かに、いつ死んでもよいという
気持ちになるなら、それでありがたい。
そういう仏教もあるかもしれませんが、少なくともそれは浄土の真宗ではない。

浄土の真宗は、よくよく案じてみれば、往相と還相ということである。
これが浄土真宗の一つの目印です。


還相というのは、出たところのその世界に深く責任を感じて、その世界を
捨てないという意味が還相です。


具体的に言えば、自分のことを最優先にしか考えられず、わが身のことに
ついてしか、心を砕くことの出来ない者が、そういう者であるにもかかわらず、
教化という課題を持つことが出来るというのが、親鸞聖人の言われる還相の
徳です。


家族の中、友達との間、そして何かの時の態度決定に、信心の人からにじみ
出てくるものがある。それが自然に教化になるのです。


還相の廻向と言うは、すなわちこれ、利他教化地の益なり(証巻)と
おっしゃられたことです。

妙念寺電話サービスお電話ありがとございます。
次回は、2月9日に新しい内容に変わります。

         平野修著 真宗の教相  法蔵館発行  40ページ