第730回 無我について

 
平成19年 1月18日〜

妙念寺電話サービスお電話ありがとうございます。

NHKの宗教の時間などでよく拝見する、金光寿郎さんが、毎月発行の
『在家仏教』という本に「無我ということ」という文章を書かれているのを
拝見しました。


今日は、その一部分をご紹介します。

仏教、仏法、仏道と違った言葉で呼ばれているのは、重点を理論に置くか
実践に置くかという違いであろうと思います。


「畳の上の水練」という言葉は、水に入った時、手はこう動かし、足はこう
動かせばよいと頭の中で理解していても水中では役に立たないという
実践者の言葉です。

仏教も頭の中の理解だけでは実人生の役に立たないところから、
「難中の難、これに過ぎたるもの無し」 と信心に急所があることを説かれて
きたのも、実践を重視する姿勢の現れでしょう。


この問題に関連した話を、先日、高槻市にあります行信教校、行信仏教学院
院長、梯實円さんに伺う機会がありました。


梯さんは「妙好人のことば」という本をお書きになっていますが、その時の、
妙好人といわれる人達の実践のお話のなかで、改めて気づかされたことが
いくつかありました。(省略)


その一つは、無我という言葉についてのお話がありました。

私は、無我とか無心といえば、何となく、心が汚れのない白紙のようになる、
何もない透明な空間のような状態を想像していました。


ところが、有名な田原のお園さんが、毎日何があっても「おさしつかえなし、
ご注文なし」と繰り返して、如来のお慈悲を喜んでいたという言葉や、彼女が
田原近辺の仏法繁盛を説明するのに、

自分の心が、「朝から晩まで、四六時じゅう、あるは、ないわ、足るわ、足らぬわ、
かわいいわ、にくいわと、三毒やら五悪やらで、それはそれは繁盛しております]
といった言葉について解説された時、梯先生は、煩悩が湧くままが無我である
といわれます。


人間の自己中心性は生まれた時から、身体に異物が入ると、無意識のうちに
免疫機能が働いて、異物を排除するように作られていますが、私たちの心も
「あれがしたい、これはいやだ」 と思うようにできています。


問題は その煩悩を自己中心のエゴが発達させるところに苦が生まれるので、
煩悩はそのままに、我を出さないで、煩悩を照らす仏の光に従って行動して
行けば、それが最晩年の釈尊が残された「自灯明法灯明」という言葉の真意に
かなうことだといわれます。


私はその説明を聞いていて新しい気づきを得たように思いました。

無我ということという金光寿郎さんの文章の一部分をご紹介しました。

妙念寺電話サービスお電話ありがとうございました。
次回は、1月25日に新しい内容に変わります。

                     2007年2月号、「在家仏教」、同心円より