第814回 報いは 自分自身で

 平成20年 8月28日〜

 在家仏教協会という組織があり、初代会長の加藤辨三郎さんが
昭和四十八年に 親しい人との会で語られた「心のやすらぎ」という
お話が「在家佛教」という月間の雑誌に掲載されていました。

その中に、

「善因楽果・悪因苦果」、善いことをすれば楽しい結果がくる。
悪ことをすれば苦しみが来る。

それが「因果応報」という言葉です。

ところがその因果応報もこのごろは 軽蔑して、そんなばかなことはないと言う。
あいつはずいぶん悪いやつだ、にもかかわらず非常に繁盛しているではないか。
あいつは悪いことばかりしているけれども、なかなか健康ではないかと言って
因果応報を否定する。

否定するのは自由だし、勝手ですけれども、そういう方向で ものを考えて
いると、その人はいつまでたっても苦悩の世界から出ることができない。

これを「自縄自縛」(じじょうじばく)と言います。

 自業自得は自分の蒔いた種は自分で取るということ。自縄自縛は
自分がなった縄で自分の身をくくって身動きができないということです。

因果応報というのは 言葉は古めかしいのですが、それを信じる人と
信じない人とでは人生の暮らし方はまるで違います。

因果応報を信ずる人があるならば、その人は自業自得の恐ろしさを知るものであり、
地獄の恐ろしさを知るものですから、その人には悪いことはしないという心が
起こります。

これが菩提心に通じるわけです。 

 その報いはほかならぬ自分自身が受ける、という因果応報を確信しているから、
その人は悪いことはできない。

ところが善につこう、悪を捨てようと思いながらも、実際にはまたしても
またしても悪いことをやる。善と言うけれどもなかなかできない。
自分は善いことをしたというのは、僑慢という悪に陥っている。

ですから因果応報を信じるがゆえに、善を行い、悪を捨てようと思えば、
それができないという、今度は一つの新しい 苦悩が出てくるわけです。

 では、それをどうするか。そこに現れるのが如来であり、仏の教えです。

それを浄土教では「信心」と申します。禅なら「悟り」でいいと思います。
要するに仏の教えはそこから現われています。

そう考えますと結局、仏の教えを聞かないことには私どもは自縄自縛の世界から
出られないということです。

自縄自縛の世界から出たということが、仏教で言えば涅槃の境地になると私は
拝察します。

しかしその境地に到達することは容易ならぬことですから、自分でその境地に
達したなんていうことは 私には申せません。けれどもそうならなければ、
本当の心の平安は得られないということです。・・・・


 仏の教えにあわないと 本当のこころの平安は得られないということ
どうか お念仏の教えに 出会っていただきたいものです。

仏の呼びかけに気づいていただきたいものです。

 妙念寺 電話サービスお電話ありがとうございます。
次回は、九月三日に新しい内容に変わります。

         


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