第892回 「昨日の私」 「今日の私」  〜 死の繰り返し〜

 平成22年 2月 25日〜

妙念寺電話サービスお電話ありがとうございます。
外科医で念仏者 田畑正久さんのお話ですが、こんなところがありました。

私たちは 時間というものを どうしても直線的に考えます。
過去があり、現在があり、未来があると考えるのです。

自分は過去に生まれて、今・現在を生きている。そして未来に死ぬであろう、
こう思考しています。


多くの患者さんたちは、死ということへの不安に襲われたとき、これはもう
解決できないものだと思っています。

「死はあきらめるしかない」と。しかし、仏教ではこれを どう受けとめるか。


 解剖学が専門の東京大学名誉教授・養老孟司先生が、これに関して
面白いことを言っています。


昨日の夜で、「昨日の私」は 死んでいる。そして今日の朝 「今日の私」が
誕生して、初体験の今日のこの日を過ごしている。

そして今日の夜に「今日の私」は死に、また明日の朝、新しい 「今日の私」が
誕生する。こういう受け取り方です。


 昨日と今日の間に 区切りをつける。そして今日と明日との 間にも区切りをつける。
この「区切りをつける」ということが
 大事なのです。・・・・


 昨日の夜に「昨日の私」は死んでいる、そして今日の朝に 「今日の私」が誕生した、
そして今日の夜「今日の私」死んでいく、
 という区切りをつけてくると、死というのは
未来だと思っていたことが
 それが昨日の夜に終わって(死んで)いた、いや、
毎日ずっと死を
 繰り返してきたことがわかってくるわけです。

この繰り返しの中で、一日一日を私たちが本当に生きていく。
明日はないかもしれないと仏教の智慧(仏智)で知る(感得)と、死に裏打ちされて
生きている、ということになります。


 仏智では、今日、生きていることの「有ること難し」ということが 自然と
思われるように展開していくのです。


生きているのは有難い偶然、死ぬのは当たり前なのだと。
こういう発想の中で、生きていることの有ること難し、有り難し ということに 
きづくときに、自分という存在は多くのものによって
 生かされている、
おかげさまの中に存在している世界が開けるのです。


そして私たちは その一日一日を精一杯生きて、未練なく完全燃焼して
いく道に導かれていくわけです。

浄土真宗では「南無阿弥陀仏」というお念仏の心を大事にします。
南無阿弥陀仏という念佛によって智慧をいただくことになります。
どういうふうにするかというと、今日の朝、今日の目が覚めたときに
「今日のいのちがいただけた、南無阿弥陀仏」とお念仏でスタートするのです。

そして今日の夜、寝るときに「今日、わたしなりに精一杯生きました、
南無阿弥陀仏」と、今日の私はこれで死んだと思って死んでいく
(眠っていく)のです。
「南無阿弥陀仏」と区切りをつけているわけです。


 仏法というものの考え方を身に付けるということは、ある意味では実験なのです。

実験をしてみて、仏教が教えていることが「本当だったな」と頷ければ、
それが真実であったといえる一面があります。


だから仏教が言っていることが「真実である」ということは 決して私たちと無関係に
独り歩きしているわけではなくて、私たちの日常生活の中で仏法の言っていることが
私の人生に
 おいて真実(本当)であった、言っている通りであったと頷けたときに、
私たちが出会った仏教が「真実の教え」であったと
 言うことが出来るわけです。

それが私の人生で本当に真実であったということにならなければ、それは教えでも
なんでもないわけです。



妙念寺電話サービスお電話ありがとうございました。
次回は、34日に新しい内容になります。

         


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