第907回  分別を離れて  〜素直な子どものように〜

 平成22年 6月10日〜

妙念寺電話サービスお電話ありがとう ございました。

本を読んでいましたら こんなところがありました。

安田理深という先生は「人間は 本能で宗教を求めているけれども
理性が反対している」と言われたことがあります。

理性という言葉をどういう意味でつかわれたかはわかりませんが、
仏教の言葉でいえば 分別ということでしょう。
これは正しい、これは正しくない。あの人はいい人だ、あの人は 悪い人だといった 
人間の分別の心が、いつの間にか人間の素直な目を
 塞いでしまっていると
いうことがあるのではないでしょうか。


金子大栄先生は、「人間は二回生まれる。母親の体内から生まれるのが
第一の誕生であり、自分を死ぬ存在として、生きていることに気づき、
生きていることの意味をしっかりと考えるときに 第二の誕生がある」と。


子供のころ 小学生か、中学生の頃に、人間は死ぬんだということ、
そして生きているということは一体どういうことなのか、を考えたことがあります。

そして自分の存在がいかにもちっぽけで、はかないものに見えて、淋しく悲しかった、
そういう少年時代がありました。


たとえば、岸辺に立って広い大海原を眺めている時、自分の存在とは 一体なんだろうか。
自分の五十年,八十年という人生は、この広い大海から見ると、岸辺に打ち寄せては
一瞬のうちに消え去る
 一つの波に等しいのではないだろうか。
人生とはなんとはかないものであろう。


そしてはなかいうちに死んでいかなければならない人生を生きるとは一体何だろうか。
と素直な疑問と悩みを持ったことがあります。


 しかし、その時に私は ふっと思ったのです。私の人生は、岸辺に打ち寄せる一つの波に
過ぎないけれども、その波はどうして起こっているのであろうか。


大海があって起こっているのではないか。大きな海がなければ私の波は ないのではないだろうか。
そうすると私の五十年、八十年の人生は、それだけを
 捉えるとちっぽけな短いものかも
しれないけれども、その裏には果てしなく広い大海があって、それが波となっているのである。


私の頭では考えきれないくらい大きな海が波のような私を生み出し、ただ今、
私を私たらしめているんだと。

 そのことに思い至った時、自分はなんとすごい命を持った存在なのだろう。
私の背景にはなんと大きなものがあるのだろう。

私の人生は決してちっぽけなものではない。大きな無限の命が私の上に今花開いて、
そういう存在として今生きているのであるから
 精一杯生きなければならないと思いました。
そう思った時、人生は明るく素晴らしいものとして私の上に輝いてきました。
そういう感動を持った経験があります。


しかし、私たちは分別を持ち始めると、そういうものから遠ざかっていく。心理学者によると、
だいたい四歳ぐらいから分別が芽生え始め、十歳くらいになると完全に分別がつく。


そしてそれ以降、私たちは分別の世界で生きていくことになる。その分別の中で
私たちはもっとも大切な自分の存在に対する感動を失っていくのです。

とくに最近のような、豊かな生活を作り出している物質文明の発達した時代においては、
物さえあれば幸せになれると思い込んで、なおさら物が心を遠ざけていきます。


物質によって大事なものを見失っているのではないかと思います。
そうした状況の中で生きていかねばならぬ私たちは、深い苦悩を受けて
生きていかざるを得ないと思うのです。・・・・

とあります。(小川一乗著 慈悲の仏道p133 法蔵館発行)

お念仏は お聴聞は 南無阿弥陀仏は その分別を離れ 素直な子供のように
生きていくことを 取戻させ 味わわせていただく はたらきがあるのではないでしょうか。

自分の存在に対する感動をよみがえらせてくれるもの。


小さな波ではなく 大きな海原に支えられて生きていることを 気づかせて
いただくのではないかと思います。

私ひとりの命ではないと 多くに支えられて生きている 生かされていると
喜ばさせていただきたいものです。


妙念寺電話サービス お電話ありがとうございました。
次回は、616日に新しい内容に変わります。


         


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