第920回 見ているもの  〜大画面で気づいたこと〜

 平成22年 9月9日〜

最後の最後で いいからと 言い張っていましたが、エコポイントが 
間もなく終わりますよと、電気屋さんに勧められて デジタル放送受信可能な
テレビに変えました。


同じことなら 大きめのテレビが良いですよとの お誘いに乗っかって 今までの
数倍はある 大画面のテレビが入りました。

想像して以上に 値段も下がって 一安心ですが、これまで小さな画面に
慣れていたせいか ズームレンズを使って急に大写しになる時とか カメラを 
横に大きく動かす時など、その動きの激しさ 大きさに驚いています。


画面が二倍になれば その映像の動きも 2倍になるものか 番組によっては
いつも画面が動き回り安定せず 船酔いを起こすような感じにさえなります。

撮影するカメラが重い時代は 必ず三脚を使って じっくり映像を切り取って
いたのでしょうが、軽量のカメラでの撮影が多くなり 手に持って
 自由に
動きまわれるために 振り回すことになった ちょうど子供にカメラを
渡した時のように、激しく動きまわっているのではないかと思います。

これまでの 小さな画面では 気づかずにいたことです。

またデジタルという 映像を電気信号に変換して 大量に伝達することが
可能になって、一画面あたりの情報量が多いせいなのか、遠くのものも 
小さなものも、人間の肌のあれも 皴も あまりにも鮮明で 少々悲しく
なってしまいます。


昔昔 フイルムで撮影した時代には 故意にピントを甘くしたり レンズの 
前のガラスにクリームを塗ったり 網目のものを置くことで やわらかく
 
暖かい映像を造り出していたものですが、解像度の良いカメラで、こうはっきりと
見えすぎると 現実と違ったまた別の世界に来た感じもします。


これまで ぼんやりとテレビを見ていましたが、その迫力に魅せられて 
画面に集中して 意外な小さな部分が とても気になっていますが
 
コマーシャルになると 必要な部分だけは はっきりと映し出され
 周りの
不要な部分は 焦点が定まらないようにして ちゃんとボカシて

撮影されていることにも気づきました。

我々の目は 実はそれぞれに選択して見ていて 自分の感覚で 
必要なものだけを 見ているものでしょうが、テレビのカメラは 
焦点を甘くして
 すべてのものが 映し出されるように 設定している
ためなのだろうとも
 思われます。

これが見せたいという 意識が働くものについては ちゃんと焦点を 
当てているものの ただ切り取るだけのものは とりあえず、すべてを
見せるようにしているのだろうと 感じています。


今は それが新鮮で 小さなところまで見ているのでしょうが、やがて 
自分の意識で 見えるものと 見えないものとが出てくるのでしょう。


ところで 私たちの日常も 本当は多くのものが見えているのに 
ちゃんと見ることを忘れていることが 余りにも多いのではないかと
思われます。


南無阿弥陀仏は 私が見ているものは 自己中心の目であり 
すべてが
 見えていると思っている その考えは 傲慢であり 
間違いであるとの
 智慧を教えていただく、教えであり言葉だと思います。

本当のものを見ているのか 見えているのか 正しく見ているのか 
錯覚しているのか 大型のテレビの画面を見ながら私の目 
私の意識について
 考えさせられています。

妙念寺電話サービス お電話ありがとうございます。
次回は、916日に新しい内容に変わります。


         


           私も一言(伝言板)