第922回 骨を砕きても  〜喜びを感じたら〜

 平成22年 9月23日〜


如来大悲の恩徳は 身を粉にしても 報ずべし
師主知識の恩徳も 骨をくだきても 謝すべし

「恩徳讃」のように 坊守さんが 足の指の骨を骨折しました。
本堂は 住職 担当ですが その他の部屋の窓開けから始まって 花の水やり 
庭の掃除 食事の準備 いかに多くの仕事があったのか はじめて認識し
 その忙しさに
感謝しています。

その一つに 犬の散歩もありました。

黒と茶の小さな犬ですが、兄弟なのに どうして こうも性格が違うのかと 
驚いています。

茶色の犬は 首輪が締まろうと お構いなしに 力いっぱい引っ張ってどんどん
先へ行きますし、黒の犬は 落ち着いて 飼い主の横に ぴったりとついて 
手を取らさずに、とてもお利口さんです。


犬たちは 坊守さんと 散歩していた道をちゃんと 記憶していて ユータンの
場所になると さっさと帰り始めます。

行きよりも帰りの方が 気が焦るのか 茶色の犬は どんどんと 紐を引いて息を
荒げてまい進していきます。


兄弟で しかも育つ場所も 餌も みな同じなのに 色が違うだけではなく、
どうして こんなに性格までもが違ってしまうのか つくづく感心しています。

犬のお供をしながら 散歩していて思いました。

いつも同じ道を 同じように行ったり来たり歩いていく、何のために この道を
歩くのか 何が目的で この道をいくのか。

ただ歩くことが犬には大事なことなのでしょうが、ことによると 人間も同じように、
朝起きて 食事をして 仕事をして 疲れて食事をして寝るだけ。

これでは 動物とあまり変わりないようにも 思えてきました。

昔 乗馬の経験がありますが 同じ動物でも 馬は非常に利口だったことを
思い出します。
一回乗せた人間はちゃんと覚えており その力量も忘れずにいて、
前回と同じところで 回転したり 走り出したり 止まったり。

人間か馬か どちらが 主体性を持つかの根競べの感じもしました。

それにくらべて 同じ乗りものでも 自動車は 本当に素直で 人間の命令に 
決して逆らわず どんなに急な坂道でも 曲がり角でも 抵抗することなく、
足と手で自由に動かすことが出来ることに 改めて驚いています。

動物の犬や 馬だけではなく 人間の 自分自身でさえも なかなか 
思い通りには 動いてくれない 悲しさがあるのに 自動車は何と素直なのか。
気持ちはあっても それに逆らって なかなか素直に行動できない自分があります。

我々の生活もただ 運動をすること 動くことだけが目的の生活では 人間らしい
本当の喜びが少ないのではないか。

自分自身を喜ばすことよりも 仏さまの願いに適った より多くの人の幸せのために 
行動することこそが 本当の喜びではないかと 感じています。


阿弥陀如来は 全てのものを救わねばおかぬ。南無阿弥陀仏を信じ 
口にするものは一人残らず お浄土へ生まれさせ 仏としての力をつけさせ
 
この世に帰って 多くの人々を救うはたらきに参加できる。


そのことの 意味を味わいながら 一日一日を ひと時ひと時を送らせて
いただきたいものです。

犬や動物と同じようにただ 食べて生きるだけではなく 人間として 
生まれてきた意味を、味わえる毎日でありたいと思います。


それには 南無阿弥陀仏に出あい 南無阿弥陀仏を口にする生活をすることで 
変化が起こってくるのではないかと 感じています。


その教えを味わえた時 身をこにしても 骨を砕きても 感謝をし尽すことがないと 
言えるのではないでしょうか。


わが身の痛みだけでなく 近くの人の痛みを通して お念仏を味わい 
有難く感じています。

妙念寺電話サービス次回は 9月30日に新しい内容に変わります。 


         


           私も一言(伝言板)