第938回 みちみちて 身体一杯 溢れ出してくる〜

 平成23年 1月13日〜

こんな話を聞きました。
「みなさん時々は 自分の身体をたたきながら ここには 功徳がみちみちている
南無阿弥陀仏が 身体一杯満ちていて 溢れ出してくる
そういう イメージを 持たれるといいですよと」。

なぜならば 
「五濁悪世の衆生の 選択本願信ずれば 不可称不可説不可思議の功徳は
行者の身にみてり」 と ご和讚にあります。


親鸞聖人は お釈迦さまの教えを お念仏の教えを正確に 伝えていただいた七高僧を
讃嘆されたご和讚の最後に まとめとして このご和讚を読んで頂いています。


濁りきった五濁悪世の衆生は ただ弥陀の本願を信ずることによって不可思議な功徳を
得させていただくことを述べられ、七高僧のご教化は、まったく選択本願のおゆわれを
しめされたことにあると讃嘆されています。


これは 大経下巻の
仏、弥勒に語りたまわく、それ彼の仏の名号を聞くことを得るありて、歓喜踊躍して、
乃至一念せん まさに知るべし、この人は大利を得となす。すなはち、これ無上の功徳を
具足するなり。


というご文、ならびに「浄土論の」の
仏の本願力を観ずるに、遇いて空しく過ぐる者なし。よく速やかに功徳の大宝海を
満足せしむ。のご文によられたものということです。

また、不可称不可説不可思議とありますのは、はかることも、説くこともできない、
心もことばもおよばないということです。


如来の本願力は 仏以外の衆生が身口意の三業で、はかることも、いうことも、
考えることも出来ないという超えすぐれた名号の功徳を 不可称不可説不可思議のというのです。

そして 功徳とは 人間の知恵ではとてもおよばないはたらきがあり、
また、その名号のいわれを信じた念仏の行者には、はかり知れない功徳利益があることを
いわれたものです。


また 
「本願力にあひぬれば むなしくすぐるひとぞなき
功徳の宝海みちみちて 
煩悩の濁水へだてなし」
  とのご和讚もあります。

「功徳の宝海」について 『一念多念証文』には、 「功徳」とは名号のことで、
「宝海」とはあらゆる功徳が欠けることなく満ちていることが海にたとえられていると示されている。

南無阿弥陀仏の名号は、「全徳施名(すべての徳を名に施す)」とも言い習わされるように、
如来のさとりの一切の功徳がおさめられている。

そして 名号は 称えられる名号 私からあふれ出した名号 はたらいていただいているのです。
私の身体には 阿弥陀如来の功徳が みちみちている 南無阿弥陀仏としてはたらき 
あふれ出てくる そうしたイメージを 持ちながら 南無阿弥陀仏を聞く毎日でありたいものです。

妙念寺電話サービス お電話ありがとうございました。
次回は 1月20日に新しい内容に変わります。

         


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