第946回 命の尊さと喜び 〜照らされている私〜

 
平成23年 3月10日〜

 「いま 人間を考える」 という 小川一乗先生の本の中に こんな
ところがありました。(法蔵館発行)

 普通の宗教は、自分が修行して、立派な人間になって、人を照らす人間になる。
ところが、仏教は違うのです。照らされている自分に目覚めていく。
それが真実の仏教なのです。

 自分が人を照らすのではない。照らすことができるのは、仏だけです。
人間が人間を照らすことなんかできません。仏に照らされている。
「照らされている自分であった」ということが明らかになった。
照らしたつもりがすでに照らされていたという世界が見えてくる。
それが、念仏の世界なのです。


 ですから、「数限りないほどのご縁が私となって、ただいまの瞬間の私が起こっている」
という、釈尊が説かれた道理を聞いた大乗の菩薩たちは、もっと深くいただいています。


『阿弥陀経』に「六方段」というのがあります。東、南、西、北、下、上の世界に
ガンジス河の砂の数を超える諸仏がましまして、そして阿弥陀如来を讃嘆されている
という内容です。

あれをどういただくか。大乗の菩薩たちは、どういただいたか。

「ガンジス河の砂の数を超えるほどの諸仏たちがましまして、この私となってくださっている」
これが菩薩たちのいただきです。

無量無数のご縁が私となっているという釈尊の道理としての説法を聞いた、
大乗の菩薩たちは「ガンジス河の砂の数を超えるほどの仏さまたちがこの私となっている」
と受け取ったのです。


自分の命の尊さ、命の喜びに目覚めていけばいくほど、照らされている光の世界が開けてくる。
仏の世界は光の世界です

だから、みなさん方がどんどん光ってくるということは、みなさん方が私を私たらしめて
いる ご縁だからです。                                      

照らされているというこの事実が、いよいよ喜びに変わっていく。

ただ私と大乗の菩薩たちとの大きな相異は、私は今のこの瞬間に光を見ていますが、
不都合な瞬間や、悲しい瞬間や、辛い瞬間には光を見ることなく暗い世界に身を置いてしまいます。

しかし大乗の菩薩たちは如何な瞬間においても、「命あればこそ」と、そこに光を見ているのです。
これは大変な違いです。
そういう世界が仏教によって明らかにされていく。

そういう教えが今の人類にとってどれほど欠けていることか「俺が、俺が」「私さえよければいい」
という我執の心を打ち破っていくのが仏教が始まって以来の歴史です。
ところが、その我執がいいことだと肯定されて、今日の世界を作り上げてきたのです。

しかし、その我執は無明です。それを打ち破っていく一番の基本は、命は平等であるという
教えに促されて、命を連帯して生きるということです。
そういうことが基本にある。


 ただいまの瞬間、私がいろんなものに照らし出されている。
「こんなすごい命を、今、この瞬間にいただいているのだなあ」と、瞬間瞬間のこの命への喜び、
尊さというものを自覚する。そういった世界が一人でも多くの人に明らかになってくると、
人間の生活はもう少し平和になります。
今のように、自分さえよければいいという世界が、どこかで恥ずかしくなるのです。

 とありました。

 妙念寺 電話サービス 次回は 3月17日に新しい内容に変わります。

         


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