第961回 今ここでの救い 〜煩悩を抱えたままで〜

 平成23年 623日〜

念仏の教えにあうものは、いのちを終えてはじめて救いに あずかるのではない。
いま苦しんでいるこの私に、阿弥陀如来の願いは、はたらきかけられている。

親鸞聖人は 仰せになる。

  信心の定まるとき往生また定まるなり


信心いただくそのときに、たしかな救いにあずかる。
如来は、悩み苦しんでいる私を、そのまま抱きとめて、決して捨てることがない。

本願のはたらきに出あうそのときに、煩悩をかかえた私が、必ず仏になる身に定まる。

苦しみ悩む人生も、如来の慈悲に出あうとき、もはや苦悩のままではない。

阿弥陀如来に抱かれて人生を歩み、さとりの世界に導かれていくこととなる。
まさに今、ここに至りとどいている救い、これが浄土真宗の救いである。

                   「拝読 浄土真宗のみ教え」20頁 より


いろいろのご縁があります。
毎月 月命日に 訪問してお参りしているお宅や、年に一回だけとか
数年に一回だけなど、 さまざまなご縁があります。

お寺の法座に よくお見えの方もあり お墓参りだけで本堂とご縁の遠い方もあります。

お目にかかって疲れないのは いつも仏さまのお話を聞いていただいている方と

お会いする時です。
一方 とても疲れるのは 仏縁がなかなかない方とのお話です。

どこがどう違うのか、一方は、相手の立場でものごとを考えることが 出来る能力を 
身につけておられ、一方は 自分を中心に社会を 見ている方々です。


仏さまのお話を繰り返し繰り返し お聞きの方は 自分の立場だけではなく
親の気持ちや、子どもの気持ちも 動物や植物の気持ちまでも 考えて
判断をし発言され、当たり前のことに感動し、喜んだり、笑ったり
お目にかかっても、楽しく時間が経つのも忘れてしまいそうです。

きっと、そこには 仏さまが はたらいていただいているからなのでしょう。
南無阿弥陀仏が 聞こえるところには 苦しみ悲しみのただ中にありながらも、
喜びや希望、感動が満ちているものです。

お念仏は 将来の救いではなく いまここでの救いの教えであるのだと頷けます。

 妙念寺電話サービス お電話ありがとうございました。
 次回は、630日に新しい内容にかわります。


         


           私も一言(伝言板)