第963回 報恩の念仏 〜喜びの声〜

 平成23年 7月 7日〜

阿弥陀如来は、迷いの中にある私たちを哀れみ悲しまれ、
そのままに救いとると はたらかれている。

浄土真宗の救いは、この如来のはたらきを信じる心一つで定まり、
念仏は救われた喜びが声となってあらわれ出たものである。

親鸞聖人は仰せになる。

ただよくつねに如来の号を称して 大悲弘誓の恩を報ずべしといへり


如来は 私たちを救いとって見返りを求めることがない。
はかりしれない如来のご恩は、決して返すことのできない大いなる恵みである。

私たちは、ただそのご恩をよろこび、感謝の思いを念仏の声にあらわすばかりである。

これを報恩の念仏という。

救いのよろこびを恵まれた者は、報恩の思いから、つねに南無阿弥陀仏と
念仏申すべきである。

                   拝読 浄土真宗のみ教え より



また一つ 悲しいお別れがありました。
長男で 家業を継ぐことを期待されていながら、なかなか決心がつかず

やっとのことで 跡取りとなったものの、先代の偉大さに 追いつくことが 
難しく悶々とする 悩める青年でした。


父親が元気なうちは 自己主張をすること、反発することが 行動の原動力と
なっていたようですが、その父親に先立たれた途端
 張りがなくなったのか、
歯止めがきかなくなったのか アルコール漬けとなり ついには 若い寿を 
亡くされました。

友だち付き合いもよい方、お得意さんとも 親密な関係でしたが

素面では 心が通じない お酒を飲んではじめて 本音が分かると
朝方まで 飲み続けることも 多かったようです。

ついつい 「お酒に酔わなくても お念仏に酔ってくださいよ。
美味しいですよ」と 口にしたこともありましたが、笑って返事は
ありませんでした。

先手先手の親の はたらきかけが うっとうしく腹立たしく、何かにつけて
反発したくなるのは、自我意識に目覚めた 純粋な人間の苦しみです。

親の思い 願いに すこしでも気づけば 喜びとなりましょうが、

なかなか素直に ハイと 南無阿弥陀仏と言えない 悲しさがあります。

私にとって 都合のよいこと 思い通りになることだけが 人生にとって

すばらしいことではないはずです、不都合なことも やがては
有り難いことだったと 味わえる時がくるものです。

お念仏 南無阿弥陀仏を口に 仏さまのお話を繰り返し聞かせて

いただくことで 気づかなかった この私のための 大きな はたらきかけに 
気づかせていただけるのです。

「親なればこそと 思えた時には親はなし」 この過ちを繰り替えさない

ためにも、どうぞ、仏さまのお話を お聴聞して 一日でも早く 気づいて
いただきたいものです。

南無阿弥陀仏は 報恩感謝の お念仏です。


妙念寺電話サービス 次回は 7月14日に 新しい内容に変わります。

         


           私も一言(伝言板)