第971回 無党派層は 無関心層ではない 〜本ものの宗教を希求する人々〜

 
平成23年 9月1日〜

西本願寺 ご本山で発行している「伝道」という季刊誌の巻頭に 
次のような 言葉がありました。

ある席で、こんな話をお聞きしました。

「夫婦とは、夫と妻という別物ではなく、夫婦という一つの縁を共に
生き抜くものである。そこから共に育てられる世界がある」
確かに、一つの縁を生き抜く中に、共に学び、育てられる世界が開かれる。

師弟であっても、親子であっても、教え教えられることは、
共に学びを続けることであり、育てられる世界である。


 真実に目覚めた仏のまなざしは、生と死の間に境界線を引いたり、
二つを別物と見たりしない。“生死”という総体がいのちそのもので

あると教える。

死に逝くものと残される生あるもの、両者の間に境界線を引き、
それぞれの立場からだけ、あれこれと論ずる昨今の風潮。
しかしここにも、この両者を一つの縁、一つのいのちとして生き抜く中に、
共に育てられる世界がそこにある。・・・・・と。



そして、その後の特集記事では 葬儀のことを論じた文章続きますが
その中に、こんなところがありました。

いまの「世俗都市」の住人たちの間には、政治領域における党派、
および職業政治家への、あの不信感にも似て、どの宗派とは限らず、
宗派に属する“職業宗教家”への大変な不信感があるということだ。

ここを捉えて政治領域では、よく「無党派層」という言い方がされるので、
宗教学者の間では、それと同様の含みで、“宗教的無党派層”と呼んだり

している。

ただし、政治領域の「無党派層」が必ずしも「無関心層」とはいえないのと
同じく、“宗教的無党派層”も ― さほどの自覚もないまま既成の宗派に
属している名目的信徒と比較してー  むしろ“本もの”の宗教を
求めている可能性がある。

考えてみれば、政治も宗教も本来(しばしば私財を投げ打ってでもされる)

ボランティア活動ないし奉仕活動ではなかったのか、それが、どちらの領域も
制度化されるにつれ、安定収入を伴った職業となり、はては、世襲の家業に
すらなっているのではないか。

この度の東日本大震災に際しても、誰もの共感を呼ぶボランティアの人たち、
その多くは常日頃、政治不信および宗教不信をかこっていた「無党派層」の
人たちであろう。いずれにしろ、だから、“本もの”の政治、および“本もの”

の宗教を希求する気持ちにおいて ひと一倍強い人たちに違いない。・・・・

とあります。

どうか、尊いご縁を得て、“本もの”に 出会っていただきたいものです。
同じ人生も 本ものの宗教的に出会うことによって まるで違って

見えてくるものです。

妙念寺電話サービス お電話ありがとうございました。
次回は 9月8日に新しい内容に変わります。


         


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