「救いのみ手の中に」 藤津西組 証誠寺 橋本教宣師

ある心優しい青年は、ある日の夜に車の運転をしておりました。すると後輪の左の方に何か「コトン」と、さわったような気配を感じました。何分、心優しい青年ですから小さな動物をひいてしまったと察して、車を止めました。やはりそうです、小さな子猫をひいてしまっておりいました。かわいそうだと思ったけれども、たいした傷でもなかったようなので、そのまま子猫を道の路肩に、そっと置いて「ブルルン」と、エンジンの音をたてて、その場を走り去りました。やがてトンネルを一つ、二つと通り過ぎ、広い道を走っておりました。するとルームミラーに写っているのです。親猫が子猫の首をくわえて追いかけて来ているのが・・・。あぁ、さっき子猫をひいてしまったので、親猫が子猫をくわえて、自分を追っかけてきていると思ったそうです。ところがよくよく見たら黒猫ヤマトの宅急便の車が追っかけて来ていたそうです。笑い話ですが、これが私たちの思いこみではないでしょうか。

そこで、私たちはこの世に生まれさせていただいた時は、手みやげ一つもたずに裸のまま生まれてきました。ですから裸のまま、死んでゆかねばならないのです。ところが、裸のまま生まれてきたのに、裸のまま死んでゆくとは思わないのが、私たちの思いこみというか、執着心なのでしょう。目で見たもの手でつかんだもの、私のものと執着する、とらわれの心。また、とらわれたものに束縛されて、にっちもさっちも行かない、人生であったなら、なんとまぁ不自由な人生だったと後悔だけが残るのではないでしょうか。

ある人から、お聞かせにあずかったお話があります。今度は中年のおじさんの話です。そのおじさんは宝くじを買い、一千万円の宝くじに当たったそうです。車に当たるのはいやなことですが、宝くじに当たったのですから、うれしいやら楽しいやら、なんとも言えないいい気持ちになっておりました。しばらくして、児童福祉施設より電話がかかって来ました。「宝くじに当たられておめでとうございます。宜しかったら少しでもいいですから私共の児童福祉施設にご寄附をお願いしたいのですが」。さっきまで喜んでいた中年のおじさんは「このお金は私のお金だ。どうしてあなた方の施設に寄附をしなければならないのか」と、怒り叫んで、電話をガチャンと切ったそうです。福祉施設の方では、よく考えて、一週間ほどしてから中年のおじさんにお便りをしたそうです。

「恵まれない子供たちの様子を一度見に来てください。この度、貴方様を私共の施設に招待します」というお便りです。中年のおじさん、子供たちの親の愛情に満たされない様子に、じかに接して、心を動かされ、恵まれない子供たちのために寄附をすることになったそうです。この中年のおじさんは、このお金は私のものという貪欲の煩悩の執着から離れることによって子供たちの喜びを自分の喜びとされたのでしょう。

お念仏申しましょう。お念仏は、お浄土から私のところまで「名声聞十方」と届いて来て下さってあります。夜にドライブをしていた心優しい青年も、一千万円の宝くじにあたった中年のおじさんも、電話の受話器を手にしておられる貴方も、この私も阿弥陀さまのお救いのみ手の中に、生かされています。ありがたいことです。

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