「合掌の世界」 牛津組 円心寺 城島隆幸師

この前読んでいた本にこんなことが載っていました。

「宋の高僧雲門禅師が、ある時、寺の門前の小川で大根を洗っていた時、過って一枚の小さな葉を折って流してしまった。葉はずんずん流れてゆく。禅師はこれを追いかけ拾い上げるまでには随分骨を折った。それを傍らで眺めていた近所の者が大寺の和尚にも似合わぬことだと思って『天下の名僧たるあなたが、なぜそんなけちなことをなさいますか』と尋ねた。すると和尚は拾い上げた一枚の葉を示しながら『たとえ小さな葉っぱ一枚といえども、みな仏様が人間を養わんがために恵み育んでくれたものじゃ。大根の一葉だといってこれを捨てては、仏恩を忘れ、仏道に背くことになる。百石の米も一粒から、ひとしずくの水も、長江大河の波となる。ああ、今日ははからずもありがたい目にあわせてもらった』といって、その一葉をうやうやしくおしいだかれたということである」

この話は「ものの本当の値打ち」を教えてくれる。「ものを大切にする」事は「けち」とは違い、ものの「ねうち」を真っ当に受け取ることから始まり、それは「合掌の姿勢」といえる。私共は、概して、ものの「ねうち」を貨幣価値ではかり、高価なものは「ねうち」のあるもの、廉価なものは「ねうち」のないものと決め、高価なものは大切に、廉価なものは粗末に扱おうとする。しかし、貨幣価値とは「価格」に過ぎず、回りの状況により常に変動する。が、本当の「ねうち」とは、価格の高低に関わらず、つねにそのものの中に、目に見えないあり方で内在する。

価格的には、とるにたりない大根の一枚の葉っぱだが、それが私に与えられたということは、私の命を養い育てんがために、種としてまかれた段階から、太陽や水などの恵みにより、長い過程を経て育てられ、今やっとめぐりあえた事であり、そのことを思うと追いかけていって拾わずにはいられないのだ。

しかも、すべてのそうした営みの後ろには、はかりしられぬ仏様のお恵みがあり、その事に気づかせてもらえば、そのありがたさに一枚の葉っぱといえども恭しく拝まずにはいられないのだ。

つまり「ものの本当のねうち」とは目に見えないものであり、それがちゃんと受け取れるということは、ご信心の生活より恵まれる。それゆえご信心とは知恩の心でもあり、自ずから合掌の姿勢をとるわけで、そこにこそ価格のいかんにとらわれぬ、ものを大切にする生活が生まれてくるのである。

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