「如来さまの前に」 三根組 妙覚寺 菅原暢道師

浄土真宗は本願の宗教だといわれます。阿弥陀如来様は、迷いの衆生を救わんがために本願を成就され、南無阿弥陀仏の名号となって私に働きかけられ、続けているのです。

本願といえば、この私から何かほど遠いように感じられますが、よく考えてみると、願とはインドの原語ではプラニダーナといい、もともとの意味は「前に置く」ということであるそうです。前に置かれるものとは何でしょうか。それは「目の離せないもの」「大事なもの」「可愛いもの」「目の前に置いていつも見ていなければならない大事なもの」です。

本願に遇うとは、この私が如来さまの前にいつも置かれているということではないでしょうか。

初孫がヨチヨチ歩きする頃でした。

娘が里帰りをして、孫を置いて外出すると、家内が、それこそ孫について廻っていつときも目を離すことがありませんでした。ちょっと油断して目を離したときなど、よく縁側に近づき、大きな声で「ホーラ、何しよるね。トーンするよ」ととんで行って抱きかかえるシーンを何度か見たことがあります。目で見て危ないと感じたら、声をかけ、同時にとんで行って抱きあげているのです。

「ホーラ、危ないトーンするよ」

喚び声となり、願は力となってすでに抱き上げられているのです。

阿弥陀様の御立姿には意味があるのです。阿弥陀さまは座ろうにも座れないのです。なぜなら如来様の前には、いつも今救わなければならないたった一人の人がいるから、如来さまは座らないのです。

「聖人の常の仰せに曰く、弥陀五劫思惟の願をよくよく案ずればひとえに親鸞一人がためなり。さればそくばくの業をもちける身にてありけるを助けんと思し召し立ちける本願のかたじけさなさよ」といつも申されていたと弟子の唯円は歎異抄の中に述べている。

助けんと思し召し立ちける本願のかたじけさなさよ。立ちけるとは行動している、立ち上がっているということである。立ち上がらない私のために、仏が立ち上がっていただいているのである。それもただ私一人を救わんが為に、働き続けておられるのです。

私の方から仏を求めて、仏を願っていたのではなかった。仏の方からこの私が求められ、願われていることが知らされるのである。

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