「我執(がしゅう) 神埼組 西慶寺 亀山法城師

仏縁に遭うということは、日常の生活をしているだけでは、なかなか見えない本当の自分自身の姿に気づかせて頂く事です。本当の私たちの姿とは、何も物理的な肉体のことではありません。心の中です。

それでは、どのような姿かと言いますと「我執(がしゅう)」と言って、自分の都合のよいようにしか物事を考えず、自分のことしか真っ先に考えきれない、自己中心的な存在です。

例えば、お天気が晴れたら「天気が良い」雨であれば「天気が悪い」とよく言いますが、良い天気であるはずの晴れの日が2ヶ月続いたらどうなるでしょう??多分大干ばつになり、深刻な水不足になるでしょう。その時私たちは、悪い天気であったはずの雨の日のことを「恵の雨」と敬います。そこでちょっと考えてみましょう、いったいこの時の「良い天気・悪い天気とは一体誰が決めたのでしょう。

天気すらも自分勝手な都合によって、良い悪いと判断してしまう私たちは、まさに「我執」なのです。その様な私たちを雨の日であろうが、晴れの日であろうが関係なく、いつでも・どんな時でも心配して下さるお方が、本当の親様であります「阿弥陀如来様」というお方なのです。

私たちは「我執」である、この愚かな私たちを平等に「お浄土」へと導いて下さり、見守って下さる「阿弥陀如来様」に感謝して、全てをお任せするお念仏が「報恩感謝のお念仏」であります。

日頃なかなか、見守られている事に気付かない私達が亡き人をご縁に・亡き人に導かれて、仏縁にあわさせて頂く、それが各家庭での年回忌等の御法事なのです。

もうすぐお盆がやってきます。親戚一同集まって、平等に見守り・平等に「お浄土」へとお救い下さる「阿弥陀如来様」に感謝致しましょう。

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