「春は枝頭に在ってすでに十分」  三根組徳常寺 塚本慈顕師

尽日春をたずねて春を見ず
草鞋踏みあまねし龍頭の雲
帰り来たって却って見る梅花の開くを
春は枝頭に在ってすでに十分

中国の人が読んだ詩です。

ある老人が冬の寒さに耐え切れず、暖かい春を探しに出かけました。

田を歩き、小川をわたり、山をこえ「春はどこか、春はどこに」とつぶやきながら春をさがしますが、どこにも見当たりません。 やがて日も傾き、疲れ切った足を引きずりながらタメ息をついてわが家に帰ります。

「朝から春をさがしまわったがどこにもきていなかった、あー疲れたのー」と庭先の縁側にどっかと腰を下ろし、庭の梅の木にぼんやりと目をうつすと驚いたことに小枝の端々に梅の花が点々と咲いているではないか。老人は頭をかきかき「あーこんな愚かなことか。春はどこにと外ばかり探し求めていたが、なんのこんなわが家の庭にすでにとどいていたのか」と、自分の愚かさを恥じ入りよろこびました。

本当なものは、私がさがし求めるに先立ちすでにこの身にいつもとどいているものです。 例えて言えば”空気”がその性格をもっています。私たちは無意識のうちにこの空気をいただいて生きているわけですが、私がこのことを知る前からちゃんと空気はこの身におよび、更に吸い方を習い、教えられたのでもないのに空気の中に生き、空気を吸いつつ生きております。それは私が手を合わせて願ったからでもなく、頼んだからでもありません。求めるより遥か前からこの生命を育まんがためにこの身に諄々として働いているのです。

私たちの仏さまを阿弥陀如来と申します。

この如来さまは、法蔵菩薩のいにしえに、私の迷いがあまりにも深いために私の迷いのはじまりから片時も離れることのない仏さまとなって下さいました。

三界流転のいのちと完璧なまでに洞察され、永い迷いの淵からどうしてでも抜け出させようとの熾烈な御思案は、とうとう五劫という時間に及びました。信じさせ称えさせて必ず救う、との願をたてその願いの通りに永い修行をもって願を満足させて南無阿弥陀仏となられたのです。その仏さまは、今ここに私とご一緒なのです。ナマンダブツ