「機法一体の南無阿弥陀仏」神埼組円樂寺 多門龍昭師

『安心決定鈔』という2巻の御聖教があります。
著者は不詳ですが、、本願寺8代蓮如上人は、「金を掘り出すようなる聖教なり」(聞書)といわれます。私どもの往生と、仏様のお覚りが離れたもので無い(機法一体)が説かれます。 このお書き物の末尾に、お譬えが載っています。

一、たきぎは火をつけつれば、はなるることなし。「たきぎ」は行者の心にたとふ、「火」は弥陀の摂取不捨の光明にたとふるなり。心光に照護せられてまつりぬれば、わが心をはなれて仏心もなく、仏心をはなれてわが心もなきものなり。これを南無阿弥陀仏とは名づけたり。   

蓮如上人は、『御文章』に
「弥陀をたのむ機を阿弥陀仏のたすけたまふ法なるがゆゑに、これを機法一体の南無阿弥陀仏といへるはこのこころなり」ともうされます。蓮如上人は阿弥陀仏の救いの願力が衆生の信心となるのであって、衆生のたのむ信は、阿弥陀仏のたすくる法のほかにはない。 たのむ信(機)とたすくる法とが一南無阿弥陀仏に成就せられているという意味で、機法一体の南無阿弥陀仏ということをお示し下さいました。

島根県石見の才市さんは、
「おやのこころと 才市のこころ
おやはたすける さいちはたすかる
ごおんうれしや なおあみだぶつ」とうたい
また
「海と潮ははなれはすまい、海と潮とひとつのものよ
わしと親様ひとつのものよ、機法一体なもあみだぶつ」とうたいます。

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