「沈まない安心の船」 牛津組光樂寺 蒲生晄隆師

5月14日の蓮如忌を中心として御文章披露が各地のお寺で勤まりました。その本願寺第八代の蓮如上人と一休禅師は、同世代の人物で、二人は親交もあり、いくつかの逸話も残っています。

その一つに次のような話があります。ある日のこと、一休禅師より蓮如上人の元へ一通の手紙が来ました。

手紙には「あれして、これして あれして、これして あれして、これして あれして、これして … … … … あれして、これして とかくこの世は忙しい」と書かれてありました。これを読まれた蓮如上人は早速返事を出された。その返事を読まれた一休禅師は我が意を得たとばかり、にやりとされました

そこには、「食て寝て 食て寝て 食て寝て 食て寝て … … … … 食て寝て 人は死ぬばかりなり」と書かれていました。あれして、これしてとは、日常の仕事や雑事ごとに追われながら生活していること。食て寝てとは、目前の楽しみや欲望に執着していること。すなわち、何のために生きているのかもわからないままに悪を造り愚痴を言いつつ、苦悩にさいなまれて空しく過ぎている私たちの生き方に対しての、お二人の厳しいお言葉です。

親鸞聖人は高僧和讃に
生死の苦海ほとりなし
ひさしくしずめるわれらをば
弥陀弘誓のふねのみぞ
のせてかならずわたしける
とお示し下さっています。

生死(しょうじ)とは、私たちの迷いの人生をいいます。苦海とは、自己の我欲我執に囚われて苦悩している相を果てしない深い海に譬えています。その苦悩の深海に遠い過去より今日まで自ら浮かぶことができず沈没している迷いの私たちを救うことができるのは、私たちを救わずにはおかないという阿弥陀様の、広大無辺のご本願のおはたらきだけであることを船に譬えてお示し下さっています。

仏法をお聴聞することは、この阿弥陀様の誓願の船に乗せて頂いていることを聞くことです。忙しいからとか、まだ若いからといって仏法を聞かないことは、せっかく阿弥陀様の船に乗せられていながらも、それに気づかないばかりか、そのよろこびもわかないことは、乗っていないのと同じことで、不幸なことと言わざるをえません。

弥陀の願船に乗っていることは、苦悩と不安の迷いの人生から苦悩を超え安心の人生へと転ぜられていく人生を生きることです。人間に生まれたことの本当の意味は、お念仏に遇い、真実に生きる力が開かれてくるところにあるといえます。

華やかなものばかりに心を奪われないで、一度ゆっくりと自分自身の生き方を仏法に尋ねてみませんか。

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