「地図」 佐賀組正蓮寺 藤木徳仁師

秋も深まりつつあるが、先日福岡県にあるお寺でのお彼岸法要のお説教にお招きをいただいた。先方のご住職様から早々にお寺の場所を示した地図が同封されたご案内状をお送り頂いていたのだが、初めて伺う場所だったので、少々不安に思いインターネットで地図を検索し印刷して、自坊からの距離や時間を計算してだいたいのとこを頭に入れて出かけた。

少し余裕をみて三時間ほどの行程を予定していたが、思ったよりも順調に車が進んだので、もうあと十数分も走れば目的のお寺に到着するつもりで「あんまり早く着きすぎたな。余り早くに伺っても先方に無用な心配をかけるかもしれないし、一応お寺を見ておいてどこかで余った時間をつぶそうと考えていた。

ところがここに至って、いけども行けども目的のお寺はもちろん目印にしていた駅すらも見当たらず、近くのコンビニに入って場所を尋ねると「ここから真反対ですよ」と教えてもらい、慌てて今来た道をたちもどったが、慌てていたのでどんどん細い道に入ってしまい一時間も彷徨ったあげく、全く見当もつかない場所に出てきてしまった。

困り果てていたいたときに思い出したのが、ご住職から送って頂いた地図だった。あらためて見てみると現場付近の詳細なものであったので、それをたよりにやっと自分がいる現在地を知り、後はその地図に示されたとおりに先方のお寺に無事到着することができた。

時間に余裕をもっていたのは幸いだったが、後から考えると本来一時間半ほどの道のりが三時間程もかかってしまった。

自分のわずかな知識を疑うこともなく、はじめから正しい方向が示されている地図には目を向けようとせず、迷いを深めずいぶん遠回りしてしまう結果になった。それでもたどり着けたからよかったのだが。

「そんなこと、教えてもらわなくても大抵のことは知っている」「何年生きていると思ってるんだ」「俺を誰だと思っている」と、自分が生きてきたわずか何年かで得た知識と経験で世の中の全てがわかった気になっていた浅はかな私であったことを知らされた思いだった。

「迷える者は道を問わない」のお譬えそのものの出来事だった。

一度限りの人生を間違いなく生きるとは、まず自らが確かな目的地を定め、そこをよく知るものが用意して下さる地図にそって生きるということでした。しかし、時間に余裕があるのかは分からない。

|戻る|