「わが一人子」 賢楽寺住職 伊東恒乗師

先日、福岡の都市高速道路で後ろの車から追突されました。実は、そこに至るまでに大きな追突事故を目撃していました。高速道路の出口付近で四重追突事故が起きていて、すぐ脇を通り抜けながら、「こんな事故にまきこまれんでよかった」と心の中で思い通過していたのです。さらに都市高速道路にのってからも、この先で事故だという道路表示がでていました。そのため道路は渋滞中でした。「今日はえらい事故の多かねー」などと思っている時に、いきなり、全く思いもよらぬ衝撃を後方から受けたのです。一瞬、何が起こったのか分かりませんでした。たいした事故ではなかったのですが、「よりによって、なんでオレが事故に」という思いから、自分が事故にあっているという認識に至るまでに多くの時間がかかったような気がしています。

目の前で出会った事故も人ごと。事故は人がおこすもの。私は大丈夫。いつでも自分は例外。そんな思いで、ずっと過ごしてきたのです。しかも出会っていながら、なお自分のことと受けとめることができないのが、この私でした。

このたびこの娑婆世界に生まれて30余年。私の歴史はそれだけではありません。途方もないような無限の時間、迷いの世界を経巡(へめぐ)ってきたのが、私の歴史だと教えて下さったのです。いままでこの無限の時間に私はすべて人ごととしか受け取ってはこなかったのです。何をいわれても何に出会っても私のこととは思いませんでした。

江戸時代の大田蜀山人(おおたしょくさんじん)の有名な狂歌に「今までは他人(ひと)が死ぬとは思ひしが、俺が死ぬとはこいつぁたまらん」というのがあります。「夕べには白骨となれる身なり」と聞いていても、つねに私は例外だと受け取ってきました。死は一人一人に例外なく訪れます。

しかし、わが力でどれほどの準備をしたところで、いよいよの時にはそんなものは何の役にも立ちません。その程度であることはもうとっくに見通されています。準備は私の手元にするのではなくて、すっかり準備して下さったのは私の親さまの方なのです。

「あなたの苦しみは私の苦しみ」と一緒に苦悩の親さま。不安に怯え、消えてしまいたいような苦しみ悲しみを背負ってしか生きてゆけない私を目当てに、阿弥陀さまは阿弥陀さまとなられたのです。この阿弥陀さまは、どこにおられるのでしょう。私は気づかずにいました。私の不安や苦しみや悲しみを生み出すこの煩悩のなかに働きづくめでした。

才市はうたいます。
あさましや さいち こころの火の中に 大悲のおやは 寝ずのばん もえる機を ひきとりなさる おやのお慈悲で

私はいよいよの時にはただひとりです。いやほんとうはずっとひとりなのです。宇宙に只一人、一人なればこそ阿弥陀さまは「我が一人子よ。親はここにおるぞ」と喚んで下さる。たった一人私だけのための阿弥陀さま。途方もないような時間をかけての阿弥陀さまのご修行も、私の人生全部を見通された上での、たった一人のこの私のためだったのでした。そう、見通された上の。これから私が歩む道は、阿弥陀さまがご照覧下さった道なのです。親さまと一緒。私が心配することはいりません。

いづこへもわれは行かまし みほとけの在(いま)したまわぬところなければ

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