「親子をすくいたもう仏様あり」 牛津組圓心寺 城島隆幸師

近ごろ世間を騒がしている事件に「児童虐待」がありあす。わが子を「不満や苦悩のはけぐち」としてしまったようです。ご門主も門徒向けのお手紙、「教書」次のように仰っています。

「急激な社会の変化で、一人ひとりのいのちの根本が揺らいでいるように思われます。私たちは世の流れに惑わされ、自ら迷いの人生を送っていることを忘れがちではないでしょうか。お念仏の人生とは、阿弥陀如来の智慧と慈悲とに照らされ包まれ、いのちあるものが敬い合い支え合って、往生浄土の道を歩むことであります。」

お経にも「独り生まれ独り死し、独り去りて独り来る」とあるように、親子ともに誰に代わってもらう事も代わってあげることもできない独立した存在です。が、誰一人として孤立しては生きられない。私が存在できるのも両親あったればこそであり、さらに遡っていけば数え尽くせぬ人の存在あったればこそ、その中のたった一人欠けても存在できない。一人一人がかけがえのない存在であり、大切に育てなければならないのに「児童虐待」が行われる。この問題は実にデリケートで、とても一言では言い尽くせぬ複雑な問題ですが、踏まえておかねばならない一つが、虐待する親を処断する事で事足りる問題ではないということです。

「さるべき業縁のもよおさば いかなるふるまいをもすべし」

という言葉があるように、「親の愛情」といえども「仏様の大慈悲」のように完全無欠な「無償の愛」とは違います。その一つの現れとして「連鎖」という現象があります。「連なる鎖」と書きますが、虐待を受けて大人になった人が親になり、わが子に虐待を繰り返してしまう。弱かった自分。叱られて、泣いて、何もできなかった。じっと耐えた時の気持ちがわが子を通して思い出され、激しい怒りに変わる。無意識にしまいこんだ苦悩が「児童虐待」となって再現されるそうです。が、自ら望んで起こしているのではありません。親も苦しんでいるのです。

「連鎖」は、虐待されて育ったこどもの親となった「悲鳴」です。「連鎖」から解放されるには、どうしたらいいのか?

「親をすてる子あり、子をすてる されど、その親子をすくいたもう仏様あり」

その仏様こそ私共の仏様、南無阿弥陀仏。縁にあえば何をしでかすかわからない私だからこそ、南無阿弥陀仏の大慈悲を戴いていきましょう。