南水組  専念寺 小杭正見
はや霜月の十一月、めまぐるしく変わりゆくこの世の中に、八十数年変わることなく歌いつがれている童謡の一つに、夕焼け小焼けがあります。諸富町では夕方の六時になると、幼い頃母と歌った、山のお寺の鐘がなる、のメロディがながれてまいります。
 耳を傾けていると・・・
 私には帰るお家があること、太陽は休むことなく地球にエネルギーを送り続けていること、私が眠っている時も休むことなく七十五年間働き続けてくれた心臓、もう休んで下さいと云うべきでしょうが、等々、いろいろの思いがわいてまいります。
 命がけで私を生んで下さった母の七回忌も過ぎた今、母の本当の声がきこえてくるようです。印度で釈迦族の皇子として生れ、富も位もありながら一切をすて、六年の修行を通して、真実の法をさとられた仏陀釈尊は、阿弥陀如来の迷える人を救わずにはおかないという、真実の願いを聞きえた人が、私と出会い、私の声を聞いたことになります、とお弟子に云っておられます。いろいろの事に迷い、六十兆からなる細胞の共同体といわれる人間の複雑な機能を調整できないでいる私ですが、浅原才市さんは、みだの浄土にかえる人なんの苦もなく浮世をすごす、ごおんうれしや南無阿弥陀仏と・・・申しておられます。
 阿弥陀如来の真実の願いにより成就された南無阿弥陀仏のお六字をいただいた人は、よろずの水が大海に帰ると青々とすんだ潮(うしお)になるように、迷いの心がそのまま仏の心に変るはたらきがお六字にあるのです。死ぬのではなく弥陀の浄土に生まれるのです。仏さまにならせていただく人生を生きてゆくことが出来るのです、とおっしゃっているようです
                                 今日は、南無阿弥陀仏
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