松浦組 厳教寺    神崎 智導

  我が家に犬がやってきました。名前は「卍朗」(まんじろう)。

先代の犬が「卍丸」(まんじまる)という名でしたので、卍の一字をいただきました。ちなみに「卍」は、地図記号で「お寺」を表すところからきています。


 その「卍朗」が我が家へやってきてちょうど一月(ひとつき)ほどになります。

いまでこそだいぶこの環境に慣れてきたようですが、生後約1ヶ月で我が家へやってきたばかりの頃は、さびしそうに「クゥーン、クゥーン」と鳴(泣)いていました。

それはそうでしょう。突然家族と離ればなれになって一人ぼっちになってしまったのですから。

そんなさびしそうな卍朗姿を見た私は、卍朗の親にはなれないけれども、親になったつもりで、なるべくさびしさを感じさせないように、そして「一人ぼっちじゃないよ」という想いも込めて卍朗の名前を呼ぶようにしています。

最近では、「卍朗」と呼びかけると、自分のことだとわかってきたらしく、ハッと顔をこちらに向けて走り寄ってくるようになりました。


 ところで、私はしばらく保育士として保育園に勤めていたのですが、そこでも「先生」というよりは「親」になったつもりで子ども達と接してきました。まだ結婚もしていないので、親がどういう存在であるのかは、子どもの視点でしかわからないのですが、それでも子ども達が園にいるいる間は「自分がこの子達の親なんだ」という気持で子ども達と日々過ごしてきました。

その甲斐あってか、時間が経つにつれ、子ども達もずいぶん親しみをもって私に接してくれるようになりました。


 しかしながら、やはり本当の親にはかなわないものです。園での生活が終わり、お父さんやお母さんがお迎えにくると、私には見せたことの亡いような笑顔で走り寄り、とびつくようにして親御さんに抱きつきます。

そんな光景を見るにつけ、少々くやしい思いを感じつつも、子ども達にとって安心して帰れる場所があり、安心してその身を任せられる親がいることの言い知れぬ安堵感を、子ども達の笑顔から感じました。


 そして、そんな子ども達も、お父さんやお母さんも、私たちも卍朗も、すべてのいのちあるものを慈(いつく)しみ抱きとってくださる親さまが、「南無阿弥陀仏」と呼ばせていただいている阿弥陀如来さまです。

阿弥陀さまは、私たちが安心してこの娑婆世界を生き抜けるよう、「お浄土」といういのちの帰依所ご用意くださり、また、私たちが間違いなくお浄土へと還れるよう、いつでもどこでもかたらきかけてくださってある仏さまです。そしてこの阿弥陀さまのおはたらきの中に生かされて生きている、ということに気づかされた時、子ども達の笑顔も、私たちのいのちも、もっともっとイキイキと光り輝けるのではないかと思います。


 最期に私事ですが、うちの卍朗もその仲間なんだな、と思いつつ、散歩の途中に本堂の前を通る時は、卍朗にもお座りをして、おじぎでもしてもらえたらなぁと、勝手ながらそう願わずにはおれない今日この頃です。 合掌

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