佐賀教区  松浦組  光雲寺    住職 藤谷 孝之

 

  元 龍谷大学長 武邑尚邦(たけむら しょうほう)先生の ことば。
感銘(かんめい)深く、いただいたことであります。

自分の努力で 仏になると考えるのは人間の驕慢心(きょうまんしん)である。 〔驕はりっしん扁に喬〕

 人間は、どんな環境で、どんな人どんな先生に出会うかによって、その人がどんな人間になるのか、想像できるようです。

オオカミ少年の話がありますが、人間の子供であっても、オオカミの群れの中で育った子供は、姿こそ人間であったけれどもその行動様式は、全くオオカミと同じであったのです。人間以外の動物は、誰が育てても、犬は犬であり猫は猫であり、猫を犬が育てたからと言って「ワン!」と鳴くようにはなりません。

 ところが人間は、人間以外のものによって育てられると人間以外のものになる可能性をもった生き物なのです。

そのような私達ですから、この私が仏様になることは、仏様に出会い仏様の教によって育てられねば仏様になることはできません。


 仏教は、その字の通り仏様の教であり仏様に成る教であります。

「仏様」それは覚者、悟った人、真実の智慧と完全な慈悲心を備えた人であります。また、他のこと、他人のことを一生懸命にして上げる事が楽しみで「して上げた」の心が全く起こらない人であります。


 ところが私の心の姿は、そんな人になりたいとは全く思ってもいないはずであります。本心は、他人の幸福よりも自分の幸福を先としているはずであります。

「隣に藏(くら)が建つと、我が家には腹が立つ」と昔の人が言っているようですが、他人の成功を素直に喜べない心があります。自分では正しい道を歩いていて、そんなに他人にお世話もかけていないし、まして迷惑はかけていないと思い込んでいます。それは自分の本性が全く分かっていない事なのです。

仏様と全く逆の、自分の事ばかりを、常に頭の中心において考え行動しているのが私達のありのままの日常の姿であると言わねばなりません。


 自分の努力では仏になれると考えるのは、自分の事を全く知らない驕慢な事なのです。 〔驕はりっしん扁に喬〕

自分中心であることさえも気が付かない私達でありますから、どんな事をしでかすか分かりません。そんな私ですから、いつも仏様の教を依りどころとし、仏様に育てられる道を日常としたいものです。

 

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