「ご縁のままに」  巨瀬組 浄泉寺  水町 芳信


 無慚無愧(むざんむき)のこの身(み)にて
 まことのこころはなけれども
 弥陀(みだ)の回向(えこう)の御名(みな)なれば
 功徳(くどく)は十方(じつぽう)にみちたまふ(正像末和讃)


 私達人間は自分の我執の世界で、都合のいいものだけを欲しがり、都合の悪いものは遠ざけようとします。

しかし、歳をとるにつれて健康面を始めとして不都合なものがどんどん増えていくのが事実です。

そういう不都合な面を真っこうから引き受けることができずに、逃げ回っている人がいかに多いことでしょうか。


 また平気な顔でうそをついたり、さりげない言葉や視線や態度で多くの人を傷つけながら、生活している私達でもあります。


 阿弥陀様の目からご覧になれば、私達は実に危なっかしい存在でありましょう。しかし、阿弥陀様はそんな私達の愚かさや拙(つたな)さを叱ろうとはなさいません。責めようとはなさいません。

それは、無意味に、またいたずらに私達に罪を告げて責めることは、ますます私達を苦しめていくであろうし、それは決して救いとはならないと見込まれておられるのです。


 「任せよ、そのまま救う」と、ひたすら救いを告げてくださっておいでなのです。

私どものすべてを丸ごと包み、抱えて救いとるお慈悲こそ嬉しい限りではありませんか。


 お救いくださる阿弥陀様がいてくださってよかったなあ、案ずることはなかったんだ。ちょうど親のふところに赤ん坊が抱かれて、何の恐れも不安もなく安心しきっているように、私たちも親様がついていてくださるのだと安心しながら、お陰さまとお念仏申しながら力いっぱい日暮しをさせていただくのが浄土真宗の信心です。


 皆さんは今日の朝をどんな気持ちでお迎えになりましたか?

お念仏と共に新しいいのちに出会えた喜びを味わえましたか?


 「明日も絶対生きている」と断言できる人はいませんね。昨日も今日のいのちを断言できなかった私が、「今日生きている」のですから、今日私は生きていると考えるべきものではなくて、本来、もとのしづくすゑの露ほども多い死であるものが今日もいのちに出会ったと味わうべきものでしょう。

だからこそ自分の力で「生きている」と表現するものではなく「生かされている」と味わわなければならないことでしょう。

このように「生かされている」と感じるところにお念仏の生き方があるわけです。

お念仏の生き方とは、自分の命を阿弥陀様にお任せすることであります。任せきった世界なのであります。


 悲しかろう。つらかろう。これもそれもみなご縁だよ。ご縁のままに生きていきなさいよ。

この如来がいつでもどこででもあなたのことを呼ばずにはおかんぞ。間違いないぞ。任せよ。

・・・こんなお慈悲に包まれながら、共々にお念仏の日暮しをさせて頂きましょう。

 

 

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