『”そのまま” とは ”このまま” ?』  藤津西組 正教寺  熊谷正之


 

 南無阿弥陀仏、「我にまかせよ、そのまま救う」。

阿弥陀さまのお救いはどこまでいっても“そのまま”であると表現されます。一体どういうことでしょう。

 私事で恐縮ですが、以前うちのお寺の総代から20年前に97歳で亡くなった私の祖母についてこんな話を聞かされた事があります。

70を過ぎた頃、くも膜下出血で倒れ医師から「親戚を集めておいて下さい」と言われるほどの重篤な状態から快復した祖母が、見舞いに来た総代さんに「頭の割れるごと痛と〜して痛と〜してお念仏の“お”の字も出せんかったとですよ。そいけん有難かった〜ナマンダブ…」としみじみ語ったというのです。

 坊守といえば住職と共に人様にお念仏をお勧めする立場なのに、自分はお念仏が出せなかったのに有難かったというのはどういうことだろうと、当時学生だった私はにわかに納得できなかったのを覚えています。

 阿弥陀さまが“そのまま”とおっしゃるのは如何なる状態であっても心を込めたお念仏を口に称え、聖人君子のような立派な人になったら救うというのではなく、「悲しいことに決してそうはなれないあなただからこそ、私が必ずお浄土へ連れて行くよ」と、既に我が身の真実を見抜いた上ではたらいてて下さっているということです。このお慈悲の阿弥陀さまに耐えがたいほどの苦しみの中で改めて出会えたことを祖母は慶んでいたのでしょう。

 これに対して「ああ“このまま”でいいのか」という“このまま”は自分自身が終生自己中心的であるという凡夫の生き様を肯定、あるいは容認してしまっている私の側からの開き直った自己弁護の言葉で、浄土真宗のお味わいの上では決して使う事のない不必要な言葉です。

 阿弥陀さまのお慈悲に“凡夫”という生き様が悲しい事だと知らされたなら、実際に出来るかどうかは問題にせず、精一杯そうでない生き方を心がけてゆくのが阿弥陀さまへのお礼、つまりご報謝となるのでしょう。

 あくまで自己中心的な自分は捨てられないでしょうけど、東日本大震災で被災された方々に対しても

“せめて”との気持ちをそれぞれが何がしかの形に出来たらいいですね。ナマンダブ、ナマンダブ・・・

 

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