巨瀬組 浄泉寺  水町 芳信


 無慚無愧(むざんむぎ)のこの身にて
まことのこころはなけれども
弥陀(みだ)の回向(えこう)の御名(みな)なれば
功徳(くどく)は十方(じつぽう)にみちたまふ (正像末和讃)

 あなたが覚えたこと・あなたの聞いて知ったこと・あなたが理解したこと・そのことが信心に役に立つんじゃないですよ。自分の本性さえ見抜けないあなただからこそ、あなたが往生成仏するそのすべての因は私の方で仕上げてありますからね。どうぞそのままで来なさい、と阿弥陀様の方から呼びかけてくださっているんです。

 
 お念仏の教えを頂きながら、そして仏法を大事だと言いながら仏法とは逆な生き方をしている自分がいるのではないか、と御自身を常に見つめておられた親鸞聖人のお心をこのご和讃を通して味わうことでございます。

今日本人の宗教観が問われています。文化庁の統計によりますと宗教法人数は十八万を超え、宗教人口は二億人を超えているそうです。


 この数字は何を物語っているでしょうか。

今私たちの周りに宗教が無数にあるということは、私たちの欲望が無数にあるということでしょう。

人間というのはひどいものだと思います。自分の幸せのためなら、宗教までも利用してやまないからです。

人間はあゆるものを自分の都合のために利用します。役に立てば信じるが、役に立たないものは信じないという、宗教を役に立つ役に立たないという物差しだけで考えているのではないでしょうか。

そこには真実の教えが見えないのであります。

 以前の話ですが、日本を訪れ一月滞在したマザー・テレサさんが、日本を離れるときに言われた言葉が忘れられません。

それはこんな言葉でした。「こんなに恵まれた豊かな日本人たちの表情が貧しく暗いのは、日本人が正しい信仰を持っていないからだ」

 どうでしょうか、耳の痛い言葉ですね。


 役に立つから聞くのではない。本当だから聞かずにはおれないのがお念仏のみ教えです。


 お念仏の教えによって、迷い続ける恥ずかしい私であることに気づき、真実の教えの中で、あるべき人間にさせてもらうのです。

如来様の光を仰ぎ、常に我が身を顧みてますます悩み多い欲深き私の姿を知らしめてもらうところに、念仏者としての生き方があると言えましょう。

 私達のそれぞれのいのちはたった一つのかけがえのないいのちであり、つながりの中に生かされているいのちであり、私の勝手ではなく頂いたいのちであります。

 「悲しかろう。つらかろう。これもそれもみなご縁だよ。ご縁のままに生きていきなさいよ。

この如来がいつでもどこででもあなたのことを呼ばずにはおかんぞ。間違いないぞ。任せよ。」・・・

こんなお慈悲に包まれながら、共々にお念仏の日暮しをさせて頂こうではありませんか。


 

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