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               佐賀教区松浦組 厳教寺  神崎智導

 

 ここ何日かで随分と朝晩の冷え込みが激しくなったように感じます。

季節の変わり目、どうぞ風邪などひかれません様、お身体御自愛ください。

 

 ところで、最近テレビを見ておりましたら、まだ10月だというのに、もう正月のおせち料理のコマーシャルをやっていました。

えらく気が早いなあと思いつつも、何とはなしに気忙しい気分になりました。

 

 正月というとを思い出しますのが「干し柿」です。我が家でも正月には餅と一緒に仏さまにお供えします。この干し柿ですが、どのようにして出来るのかといいますと、渋柿の皮を剥いで紐で吊し、軒下などに干しておくんですね。そうしますと、冬の冷たい風にさらされつつ、太陽の光に照らされることによって、元々渋かった味が、徐々に何とも言えない、よい味わいに変わっていきます。

 

 この「渋柿」から「干し柿」へと味が変化していく様を、先人方は「調熟」という仏さまのおはたらきに喩えてよろこばれました。

「調熟」とは、仏さまの光に照らされることによって、私が私のままに調えられ熟されていくというおはたらきをいいます。

 

 「渋柿」から「干し柿」へと味が変化していく過程において、何も渋柿の「渋」の部分だけをポコッと抜き取ったりする訳ではありません。冷たい風を受け、太陽の光を浴びることによって、渋柿が渋柿飯のまんま味が調えられていくのですね。

 

 そしてこの私に目を向けてみますと、私には煩悩と言う名の「渋」があります。

というゆうより私そのものが「渋」そのものというべきでしょうか。

その煩悩という名の「渋」は、先の渋柿と同じように、ポコッと抜き取れる訳ではないのです。

むしろその煩悩なしでは生きていけないのが、この私です。その私の身の周りには様々な世間、社会の風が吹いています。温かかったり冷たかったり・・・

そのような風にさらされて生きていく中で、煩悩を抱えたままの私が私のままに、仏さまのあたたかな光に照らされることによって、調えられ熟されていくのですね。

そのようにいただきますと、私にとって冷たい風だなと感じるような出来事や、私には関係ないと感じていたようなことも、今の自分を今の自分たらしめているという意味で考えますと、無意味なこと、無関係なことなど本当は一つも無かったのだと気づかされます。

 

 「渋柿の渋こそよけれ そのままに

  かわらでかわる 味のうまさよ」

 

 渋を抱えているこの身を歎きつつも、だからこそのお育てをよろこべる「いのち」の世界が、今ここにあるのですね。                               南無阿弥陀仏

 

 

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