『死んだらお終い?』   藤津西組  正教寺  熊谷正之

 

 

 先日、佐賀県で初の緩和ケア専門の病棟を設置した病院が移転・開院したことが報じられていました。私事ですが20年ほど前に勤務していた鹿児島別院がお寺として終末期医療に関わるようになったのは医者や看護師が末期がんの患者から「私は死んだらどうなるのですか?」との問いを度々投げかけられて困惑し、相談されたことがきっかけの一つ。と聞いたことがあります。

一般の病棟と違い、患者本人が長くても余命が半年ほどしかないことをご存知ですから「まぁ〜そんな気弱なことを言わないで!早く元気になって退院して下さいねっ」などといった偽りの気休めは全く通用しないのです。

皆さんならこの「問い」に何とお答えになられますか?

 ところで、どんな分野でも物事の上達、理解には「問い」を持つことが大切であると言われることがありますが、実はほとんどのお経もお弟子方の様々な問いに対してお釈迦さまがお答えになるといういわゆる問答形式で成り立っており、「問い」を縁として悟りに導こうとされるお心を伺うことができます。

 ところが、「ここから十万億仏土という距離を隔てたところに世界がある。これを名付けて極楽と申す」と私の命の行き先を告げて下さった『仏説阿弥陀経』にはそもそも「問い」自体が存在していないのです。

 それは生きていることを前提としてしか日常の様々な約束や予定もできず、次の瞬間の命の保証がないと言うのが “事実” であっても、そんなことを前提にしたら社会生活は成り立たないというのが私共の “現実” です。

ですから、宗祖親鸞さまはよほどの状況でなければ命の行先を真剣に問うことはないであろうということを既にお見抜き下さっていたお釈迦さまが、大いなるお慈悲の表れとして私の問いを待つことなく、「南無阿弥陀仏の声の仏さまとともにある命は死んだらお終いではなくて、いつどこでどのような縁によって娑婆の命が終わったとしても、必ず必ず西方の極楽浄土にこの上ない悟りの仏として生まれる命を “今” 生きているということなんだよ」と予て告げてくださっていたのだとお味わい下さいました。

 誰一人として『生者必滅』は避けられないのは事実ですが、決してむなしく終わってゆく命ではないお浄土で仏とならせていただく命だぞ!と言うことですね。ナマンダブ、ナンマンダブ・・・。

 

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