「時間(とき)をいただく」   藤津西組賢楽寺衆徒 伊東一樹

 

 阿弥陀様とは、「南無阿弥陀仏」の声となって、この私の身に満ちてくださり、この口を割って出てきてくださる仏様です。どこか遠いところから、こっちへおいでください、とおっしゃっているのではなく、私のためにいま、ここに届いてくださる仏様なのです。そして、阿弥陀様は「声」となって称えられる仏となってくださいました。

南無阿弥陀仏という声の仏となって、あなたの所に出向いていきますから、聞いておきなさい、とおっしゃいます。

 阿弥陀様は、どのような仏となろうかと、長い間お考えになりました。正信偶には「五劫思惟之摂受」とあります。劫というのは、インドの時間の単位のことで、極めて長い時間のこととされています。私のために、それほどとてつもなく長い時間を費やしてくださったのです。

 先日、職場で大変お世話になっている先生が退職なさいました。その時に、みんなから先生に記念品をお贈りしたのですが、そのお礼にと今度は先生から一人一人にネクタイを頂戴しました。そのネクタイは、先生が仕事の帰りに近くのデパートで購入された物でした。きっと、先生は、一人一人の顔を思い浮かべながら、選んでくださったと思います。ネクタイを頂いたことも嬉しかったのですが、それ以上に、私のために、時間を裂いて選んでくださったことがとてもありがたく思ったことでした。

 阿弥陀様は、ひとえに私のために長い時間をかけて、私を救う手だてを考えてくださり、今、ここにはたらく仏様となってくださったのです。
「おまえを救う仏はもう届いておるよ」という、阿弥陀様からのお呼び声を、自分自身の声を通して聞かせていただくのです。私が称えるお念仏でありながら、それは阿弥陀様のおはたらき、お呼び声でありました。

声の仏となって、今まさにはたらき続け、この私を、お念仏をとなえる身と仕上げてくださいました。
そして、いのちが尽きたらならば浄土に迎えとると、はたらいてくださる阿弥陀様のことひとつを聞かせていただくのが、浄土真宗のおみのりなのです。

 

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