「ご信心」 神埼組 大立寺 平尾法道

 

 浄土真宗では、み教えを聞くことを《聴聞》といいます。「きく」という字、聴く・聞くをふたつ重ねます。同音にして意味は互いに少し違います。

すなわち、聴(聞)き方が違って来るのです。「聴」とはききにいく、「聞」にはきこえてくるという意味があります。こちら側から意図して聴く、あちら側から聞こえてきたことを素直に聞きいれる。

 私たちは、ご縁のあるたび繰り返し繰り返し聴かせていただきます。その聴いた先に聞こえてくるものがあります。その聞こえてきたことが明らかになってきたことを、私たち一人ひとりが疑心(疑い心)無く受け入れていく、それが浄土真宗の《聴聞》の姿であります。

 

 それでは、み教えを聴聞すれば何が聞こえ何が明らかになってくるのでしようか。

 

 七高僧のお一人、善導大師はふたつあると教えて下さいました。観経疏に「一つには決定して深く自身はこれ罪悪生死の凡夫広劫よりこのかた常に没し常に流転して出離の縁あることなしと信ず。(この私は地獄に向かってしか歩いていきようのない愚か者であったということが明らかになってくる。)「二つには決定して深く彼の阿弥陀仏の四十八願は衆生を摂取して疑いなく慮りなく彼の願力に乗じてさだんで往生を得と信ず。」(地獄に向かってしか歩いていきようのないこの私を、どこまでもどこまでも追いかけて追いかけて追い越して摂め取って下さる仏様が阿弥陀様でありましたか、ということが明らかになってくる。)と善導大師は教えて下さいました。

 

 ここで興味深いことに善導大師、二つと示され、また本来は一つであるとも示されました。二つにして一つ、一つにして二つ。これは一体どういうことなのでしょうか。


 ご法事の席で年配の方がこんなことをしみじみとおっしゃいました。「ご院さん、この年になって、初めて親のご恩がわかるようになってまいりました。」この方の思いに寄り添いながら、私なりに味わせて頂きました。

 

 「親のご恩がわかる」とは、何が明らかになったのでしょうか。この方も何人かのお子さんを授かり、子育てに翻弄されながら賢明に人生を歩んでこられたのでしょう。時には子育てに悩み眠れない夜を過ごされたこともおありだったのではないでしようか?「子をもって分かる親の恩」と昔からいわれています。

 

 私一人に注がれていた親の深い深い慈愛に気づかされた。もう一つは、そんな親心にまったく気づくことなく反対に背いてしか生きることのできなかった自らの愚かさに気づかされたということではないでしようか。この二つが「親のご恩がわかるようになってきた。」 という一つの言葉となって表れたのではないでしょうか。

 

 浄土真宗のみ教えを聞かせて頂く、聴聞を重ねるご縁を頂くとは、地獄にしか行きようのない愚かなおこないばかりをしている我が 身が明らかになってくるのと同時に、そういうあなただからこそほっておけないという、阿弥陀様のお慈悲(救い)の深さと尊さ(有り難さ)が明らかになってくるのです。そのことを私たち一人ひとりが受け入れていく、 それが浄土真宗のお聴聞であり、ご信心を頂くということなのです。   称名念仏

 

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