1504
 

 

           佐賀組 正蓮寺住職 藤木徳仁

 

 少しずつ春のたよりも聞かれるようになってまいりましたが、世の中は年度末の月でもあり、新しい年度を迎える準備に追われている方も多いのではないでしょうか。

 さて、今月の本願寺佐賀教堂の掲示板の言葉は「お経」の意義を教えて頂いていると読ませて頂きました。

世間一般では「お経を読む」行為は死者が喜ぶことであり、死者が迷わず仏と成るように、特に位の高い僧侶が読み上げることで、死者もさらに高い位の仏となるように考えられています。

 確かにそのように伝えられる仏教もあり、大変広い意味ではまちがったことではありませんが、そもそも「お経」とは何でしょうか?

 好く意味もわからない呪文のようなものと考えている方も多いのではないでしょうか。

しかし、お経とは仏教を開かれたお釈迦様の説法であります。

 お説教されている言葉を中国の方が大変なご苦労をされて漢字で書き表して下さったものでありますから、お経は「私が読む」というよりも、私の口を通して、私の口を借りてお釈迦様の言葉がお釈迦様の願いが出てきて下さっており、口や声を使って頂いている私はもちろんのこと、聞こえる者同士で聞かせていただいているということなのです。

 つまりお釈迦様は歴史上は二五〇〇年前の方でありますけれども、そのお心は今も現にここで私たちへ尊い「法」を説いていて下さると受け止めるべきなのです。

ですから掲示板の言葉では「手紙」と表現されているのでしょう。

 私たちもこれまでいろいろな手紙を書いてきましたし、これからも機会があればさらに書き続けることでしょう。悪意のあるものや迷惑になる手紙は別にして、殆んどの手紙は相手の幸せを願う言葉で締めくくるのが通例ではないかと思います。

 手紙とは最終的に私が相手の幸せを願っているこを伝える手段であり、離れていても心は傍にいることを伝えることが目的です。

だからこそ、温かい心のこもった手紙は何度も何度も読み返しては差出人の心を受け止め直しをするものです。

遠い場所にいるから、遠い過去の手紙だからと言ってその差出人がいないのではないのと同じことです。

 もう二〇年も前のことですが私の家で父の葬儀を済ませた折り、戦地である満州から日本にいる子供達、家族に向けて出された手書きの絵葉書が何通もみつかりました。

子供達一人一人の名前をあげては「おりこうさんにしてますか」とか、「おかあさんのお手伝いをするように」とか、「みいこ(猫の名)をかわいがるように」とか、「早く帰るようにします」など私たちを思いやる言葉であふれていました。

 終戦から七〇年、当時いなかった私が読んでもその父の言葉は温かく、心にしみるものです。

 「お経」確かにそれは漢字ばかりで難しく、忙しい現代社会では時間もなく足が痛いものでしょう、しかし、その本当の内容はその「忙しい忙しい」と言ってたった一度限りの人生が忙殺されてしまいそうな私たちだからこそ、善悪や生きる方向に迷いつづけている私たちだからこそ、「どうか大切に生き抜いてほしい」という仏様の願いをお釈迦様が差出人になって届けて下さっているものです。

 今月は早くも春のお彼岸の月になりました。お経を読んだり聞いたりする機会も増えることでしょうから、どうぞ機会をみつけては何度も何度も読み返して下さることをこころから願うものです。

 

 |戻る