「自分の心に気づいてみましょう。」 田代組 専念寺 久保山眞澄

 

 自分の心の中は、外からは見えないからと粗末にしていませんか。その心の中こそ、一番大切な所なのです。

心の話は、父王殺しで悩む阿闍世太子の話や涅槃経の話から聴く事にしましょう。

 お釈迦様のお話の中の観無量寿経には、父王を殺し、母、韋提希をも殺そうとして、その罪の意識の中で苦しむ阿闍世太子の事が書かれています。
阿闍世太子は、何の罪もない父王を殺したその後悔の熱で、体じゅうに出来ものが出来てしまいます。その悪臭と不潔さは、人を寄せ付けないほどです。その苦しみの中で、王、阿闍世が言います。

私はかって知者(智恵のある人)が言うのを聞きました。

{体と口と心、身口意による行為が清らかでない人間は、必ず地獄に落ちる、と}すなわち、阿闍世王は自分の罪により、自分もきっと地獄に落ちるのだと、恐れおののいているのです。そこで大臣の耆婆が言いました。

{釈迦牟尼仏はこのように言われています。この苦しむ人を救う二つの方法がある。一つは懺、もうひとつは愧である。懺とは、自分が罪を作らないこと、愧とは、他人に罪を作らせ無いことである。懺とは、自分の心に恥じること、愧とは、他人に向かって恥を表す事である。懺とは、人間に対して恥じること、愧とは、神に対して恥じる事である。これをまとめて懺愧という。

懺愧の無いものは、人と呼ばれず、畜生とよばれる。懺愧有るが故に、父、母や年長者を敬う木本が生じ、懺愧有るが故に父母、兄弟、姉妹の区別有りと説くのです。悪事を行ったとしても、後でそれを告白し、反省して慚愧し、二度と其れを繰り返さなければ、丁度、にごりみずに明礬を入れたのと同じです。明礬の力で水が澄んできます。

隠す人には煩悩が付きまといます。隠さない人には煩悩がつきません。告白懺愧することにより煩悩がつかないのです。もし罪を作ったら、それは隠してはいけません。隠さなければ、罪は弱まります。その上懺愧すれば、罪は消えます。}

この様にお釈迦様は言われました。煩悩、それは身を煩わせ、心を煩わせるもの。心を悩ませるもの、心が病むのは殆ど、自分可愛さの煩悩のせいだと、気付かせていただく事こそ、最も大切なことだと思います。

 まよいの家にかえらんは 疑う罪のあればなり
 さとりの国にうまるるは ただ信心にきわまりぬ
               (正信偈和讃意訳)

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