疑いのない心     馬場一實

 「浄土真宗の救いのよろこび」第一章に、「阿弥陀如来の本願は、かならず救うまかせよと南無阿弥陀仏のみ名となり、たえず私によびかけます」と、阿弥陀さまの「願い」をお示しになって、その「願い」が、私が承けやすいように、永い間考えに考えて、南無阿弥陀仏という声の仏さまとなって下さいました。

如来さまは、智慧のはたらきで以て、私を無明煩悩が満ち満ちた凡夫と見抜かれました。

見抜いたうえは、お慈悲の心で救うとはたらいておられます。智慧と慈悲は、どうしても二つ揃っていなければなりません。この知恵と慈悲が成就したところに、いかなる無明煩悩が満ち満ちた凡夫でも必ず救うことができると、如来さまが信じて下さっています。

 これを疑いのない心「信楽」と申されます。

宗祖親鸞聖人は、二十九歳の時、法然聖人と対面され、その仰せを聞かれて、比叡山での二十年間のご修行を、混じり気のある「雑行 」として捨てられました。

価値観がひっくり返るほど驚かれたに違いありません。

その時の気持ちを、「私が超えて行く道ではなかった。阿弥陀さまが、この親鸞を生死無常の凡夫と見抜かれて、かかりはててくださった。阿弥陀さまの願いによってこそ、生死を超える道がご用意されていたのだ」と申されました。

 以来、親鸞聖人は、九十年の生涯をかけて阿弥陀さまの願いをうち仰ぐお姿を私たちにお示しくださいました。ご本願の上では、至心(こころから)・信楽(信じ喜び)・欲生(往生安心の想いより)とお示しになっておりますが、私の頂くのは信楽ひとつ・信心ひとつでございます。南無阿弥陀仏のお名号の意味であります。信楽によって私に向かってくださいます。

「つれてゆくぞ」のよび声であります。それが私の心の底に届いて「そうでありました、ナマンダァー・ナマンダァー」と安心させて頂くのです。そして、ご報謝のお念仏として聞こえていくのです。(終)

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