○○さんが、ワリー言いよったが昨日ミテタと。

                 白石組 西光寺 西 昭文

 

 ○○さんが、ワリー言いよったが昨日ミテタと。

 四国の高知あたりの言い回しです。

 「あの人は具合が悪いと聞いていたが、昨日亡くなったそうな。」

を土佐弁で「○○さんが、ワリー言いよったが昨日ミテタと。」と言う。

 ミテルは、人が死ぬこと、物がなくなること。満足の満を使う『満たす』の古い形で、いっぱいにするという意味だそうだ。

 死をこのように、終了ではなく満期と考えると、死への心がまえも変わる。

 と、一月二十八日 朝日新聞「折々のことば」に紹介されていました。

 俳優松方弘樹さんの火葬場に同行した梅宮辰夫さんが「遺品も花もない。骨だけがバラバラになって出てきたんです。悲しかった。人間ってこんな簡単なのかとつくづく思った」(遺体を焼く)1時間であんなに変わってしまう。死んだらおしまいだと思った」と語リました。

「死んでしまうと終わり。何も残らない」大切な親友を送らねばならなかった悲しみが、そう言わせたのでしょう。

 しかし、この私のいのちは死んでしまうと終わり、何も残らない、空しい、空っぽのいのちなのでしょうか?

親鸞聖人は 高僧和讃に

 本願力にあひぬれば むなしくすぐるひとぞなき
 功徳の宝海みちみちて 煩悩の濁水へだてなし
 と高らかに歌われました。

 本願のはたらきにあったならば、もはやいたずらに迷いの生死を過ごす人はない。

宝の海のような功徳が身に満ちみちて、私たちの煩悩の濁水も往生成仏の妨げになることはない。

 ナモアミダブツと私に途切れることなく「空しいいのちで終わることはないよ」と喚び続けてくださる

阿弥陀さまのはたらきを聞きうけた時に、この身は、ともに悲しみ、ともに苦しんでくださる名号のお徳、仏さまのはたらきが満ち満ちてくださっていることを知らされ、浄土へとつながる尊い人生を歩ませていただいていたことを聞くのです。

 この身は、いのちある限り、煩悩を無くすことはできませんが、決して捨てぬ阿弥陀さまが身一杯に行き渡ってくださっているいのちなのです。

 今、仏さまと共にあるいのちだから、できるできない、持っている持っていない、などに関わりなく

「お前が大事だよ」とお慈悲いっばいに包まれているいのちを生かされているのです。

 長かろうが短かろうが、ゆっくりだろうがいきなりだろうが、もう仏さまが満ちてくださっているいのちなのです。

 このいのちは無くなってしまうのではなく、仏さまが満ちてくださっているからこそ大切にしなければならないいのちであり、浄土へ、さとりへと向かわせてもらっている尊いいのちなのです。

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