50回忌はお祝いなの?  藤津西組正教寺 熊谷正之

 

 

 

 数年前、あるご門徒のお宅の50回忌を温泉旅館の大広間で、というご縁がありました。お斎となり暫くするとお酒も進んで気分がよくなられたのか施主の方が舞台上に上がりカラオケセットを引きずりながら、「賑やかなのが好きでしたし、50回忌はもうお祝いだと聞きますから、ちょっとはいいでしょう?」と同意を求められ返答に困ったという場面がありました。

 

 一般には悲しみ事とされる仏事ですが、50年経つと正式に神様になられる、という神道と混同されていたり、親の50回忌であれば、それだけ自分たちが長生きしたということだから、慶び事なのだ、と言うのが理由のようです。もちろん年忌法事は悲しみの極みである“死”を縁に始まる仏事ですし、カラオケでも歌おうというほどに、年月の流れが愛する者との別れの哀しみを和らげた、と受け取れば分からなくもないのですが、私としてはそもそも“お祝い”という言い方自体がこの場にふさわしいのか、どうしたものかと考えたことです。

 

 ところが宗祖親鸞さまは、50回忌どころか、お手紙の中でお弟子であった平塚の入道や元山伏まであった弁円が往生されたことを聞かれ、即座に「うれしい」「めでたい」と仰っておられます。ここで「往生」と仰っているのは、一般に「死ぬ」「亡くなる」ということを指していますが、この「往生」とは「往生浄土」の略です。

一見すると不謹慎なご発言のようですが、親鸞さまは平塚の入道も弁円も仏さまの世界であるお浄土に“往き”、悟りの仏さまとして“生まれ”られたのだから今後はお念仏の中出いつでも会える、めでたいことだ、と慶んでおられるのです。

 

 いかに愛おしい人であっても命を終えれば、もうこの世で再び会いまみえる事はできません。

それは誠に悲しいし、つらいことであります。ですが、“往生即成仏”と頂く我々にとってご命日とは、亡き方が仏さまと成られたお誕生日であるとも言えるのではないでしょうか。いつでも、どこにいても「大丈夫!大丈夫!私がここにいるよ」というお念仏となって私を導き支えてくださる働きを始めてくださった日ということです。

 

 お通夜以降、全ての仏事を仏さまとしてのお誕生日のご縁と味わうならば、必要以上に悲しみを演出する必要はないのかもしれませんね。ナマンダブ、ナマンダブ・・・

 

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