神埼組 大立寺 平尾 法道

 

 都会では「直葬」(お通夜・お葬式をしないこと)が流行っているそうです。
私たちの先輩はなぜお葬式やご法事を丁寧に勤めてこられたのでしょうか?

 私たちは人が亡くなった日のことを、後々何と呼びますか? 命日といいます。
どんな漢字をかきますか?
「いのちのひ」と書きます。
しかし、なぜ亡くなった日のことを「いのちのひ」というのでしょうか。
それは「いのち」について考える日だからです。私たちは身近な大切な人を亡くしたとき、いやおうなしに「いのち」の儚さ尊さかけがえのなさを知らされます。
普段生きていることが当たり前と思っている私に、身近な大切な方々が、自らの「いのち」をかけて、「いのち」の儚さ・尊さ・かけがえのなさを教えてくださったのです。そのような日だからこそ、私たちは命日と呼ぶのであります。

 また、お葬式・ご法事のお経に、耳を傾けておりますと、いろんなことを思い
したり考えたりしませんか?
「早う終わらんかな。いつまであげんさっとやろうか。お昼のお斎はどこにいきんさっとやろうか。」そんなことばかり考えていますか?
違いますね。「あんなこと、こんなことがあったなぁ。」「もっといろいろ話したかった!」「いろいろお世話になったのに、何ひとつ恩返しすることができなかった。申し訳なかったな。」と・・・。
そのような思いの中で、初七日・二七日・三七日と、亡き人とのご縁をしのぶ中で、日々自己中心的な生活を送っている、私に尊い仏縁を残してくださった。
いや、こんな私だからこそどうぞ仏縁に遇ってくださいとお葬式・ご法事を残してくださった。と聞かせていただくのが浄土真宗のお葬式・ご法事の受け止め方であります。

 先日、フリーアナウンサーの小林麻央さんが亡くなられました。
その数日後、姉の麻耶さんのブログにこんなことが書かれてありました。

「もっと一緒にいたかった もっと一緒に話したかった
もっと一緒に笑い合いたかった もっと一緒に もっと一緒に
いろんな思い出作りたかった 一緒に生きていたかった
これまで妹が教えてくれた 当たり前などなにひとつない

 日常 いのちの輝き尊さ 愛に生きるという ひとつひとつを胸に
妹がいないという現実とともに 生きていきたいと思います」
「おはよう」と起きてくれば、「おはよう」と言ってくれる人がいる。
「いってきます」と言えば「いってらっしゃい」と背中を押してくださる人がいる。
「ただいま」と帰れば「おかえり」と迎えてくれる人がいる。そんな当たり前の日常が本当は尊い有難い(ある事が難しい)ことであったということに妹さんの死を通して麻耶さんは気づかれたのです。

 仏縁に遇うということは、亡き人のこころに出遭い仏さまの願いに出遇うということです。それは、本当の自分に出遭っていくということなのかもしれません。

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