季節は巡る。
   浩之達が高校生になり、春が過ぎ、夏が過ぎ、秋が過ぎ、冬が過ぎ・・・。
   また春になり、桜の花が、短い間に一斉に咲き誇り、儚く散っていき・・・
   葉桜になり、若い黄緑色の葉が優しい風に揺られ、強めの雨に打たれ、初夏が過ぎていき・・・
   やがて、生命の力強さを感じる濃い緑にその色を変化させ、燦々と照らされる太陽光線をその身一杯に受ける、夏がや
  ってきて・・・
   何時しか五月蠅いだけだった蝉時雨も止まり、一抹の寂しさを覚え、代わりに太陽が優しくなった秋が、今年もやって
  きた。


   浩之達、というより高校生にとって、来年に若干不安を感じながらも、最も光り輝く二年生がすでに折り返しを向かえ
  ていた。
   これは、そんな中起こったささやかな、本当に些細な出来事である。
   だが、当事者であった浩之には、本人も気付かぬ間に、人間としての成長を遂げることが出来た、些細な事件であっ
  た・・・。





  「だぶる・ぶっきんぐ」





   ざわざわざわ・・・というざわめきが、廊下に満ちている。みんな、授業が終わった開放感からか、意味もなく笑顔を
  浮かべていた。季節が変わっても、構成する生徒達が入れ替わっても、何の変わりも無い高校の放課後である。
   そんな中、鞄を左肩に担ぐ姿勢で、浩之が教室から出てきた。顔はささやかな午睡を途中で打ち切られたためか、
  不機嫌さで満ちており、普段よりも幾分細くなった目がしょぼしょぼと瞬いている。まだ完全には眠りの世界と現実世界
  の狭間から、抜けきっていないようだ。
   廊下に出ると、浩之と同じように下校しようとしている者、部活に急ぐ者とで混んでいた。目的は違えど行動は同じ
  で、何故だか皆忙しく動き回っている。部活がない浩之にして見れば、何で帰る奴も何かに追われるように帰る奴が多い
  のか、不思議でならない。
   浩之はゆっくりとした足取りで、言い換えればやる気のない足取りで、帰路に就くべく歩き出した。
   その背中が、ぽんっと叩かれる。浩之が肩越しに視線を送ると、にこにこと笑った幼なじみが立っていた。

  「浩之ちゃん、帰るの?」

  「まーな。」

  「じゃ、一緒に帰ろ。」

  「まーな。」

   承諾したのか拒否したのか、わからない返事をする浩之だったが、幼なじみのあかりには承諾の返事だとわかってい
  る。あかりは浩之の隣に並び、一緒に歩き出した。



  「ふあ〜〜〜あ。」

   校門をくぐるなり遠慮のない大あくびをする。
   外は、快晴。
   もうすぐ夕方になるのだが、今はまだ雲もほとんどない青い空が広がっていた。ぽかぽかとした陽気がさらに浩之の
  眠気を誘ったようだ。秋は、人が最も過ごしやすい季節である。

  「眠そうだね、浩之ちゃん。」

   それを見て、あかりは正直な感想を言った。浩之はあかりをちらりと見ると、また視線を前に戻す。

  「ああ。熟睡してるところを誰かに起こされたからな。」

   それを聞いてあかりは困った表情になる。浩之を眠りの園から追い出したのは、他でもないあかり本人だった。

  「でも・・・浩之ちゃん、授業が終わっても寝てるんだもん。あのままだったら風邪ひいちゃうよ。」

  「風邪よりも睡眠時間の方が重要だ。」

  「だって・・・、校門だって7時には閉まっちゃうし・・・、帰れなくなっちゃうよ?」

   浩之の意地悪な言い方にも、真面目に、ただしどこか抜けた返答を返すあかり。思わず浩之は苦笑を浮かべた。

  「それまでには起きる。誰かが起こしてくれるだろうしな。」

  「だから私が起こしたのに・・・。」

  「それとこれとは別問題だ。」

   勝手なものである。



   いつものように他愛のない会話をしながら、二人は通い慣れた道のりを歩いていった。いつもと同じ、と言ってしまえ
  ばそれまでの風景。一週間に一度は必ず見る風景だ。
   だが、今日は普段とは少し違う会話をあかりが振ってきた。

  「浩之ちゃん、明後日の夜って、暇?」

  「明後日って言ったら、日曜日か。まあ、暇だぜ。」

  「それなら、家に御飯食べに来ない?お母さんがたまには浩之ちゃんを呼んだらって・・・。」

  「う〜ん、どうしよっかな・・・。」

   浩之があかりの家にお呼ばれすることは、たいして珍しいことではない。あかりの両親も浩之のことを気に入ってる
  し、浩之は一人暮らしをしているので、たまに声がかかるのだ。
   浩之にして見れば、その申し出は大変ありがたい。あまり感じることの無くなった「家庭の雰囲気」と「家庭の味」を
  味わうことが出来るし、何よりもあかりの母親が作る料理は最高の味だ。あかりでさえ、浩之らが通う学校の生徒では、
  三本の指に入るほどの料理上手なのだが、それよりも旨い。おまけに、一食分浮くし沢山食べることが出来る。
   それにもかかわらず、浩之が行くのにためらいを感じるのは、浩之の見栄のせいだ。普段から浩之の健康状態チェック
  に余念のないあかりが、「ちゃんと御飯食べてる?」とか、「栄養のあるもの食べないと駄目だよ。」と聞いてくるの
  で、その度に「ちゃんと食べてる。」「いちいち心配するな。」と憎まれ口を叩いていた手前もある。さらに、そう何度
  も向こうの好意に甘えるのは自分のためにも、もちろん向こうのためにも良くないことではないか、とも思ってしまう。

  「焼き肉にしようと思ってるんだけど・・・。」

  「のった。」

  「は、早いね。」

   短い間に色々考えていた浩之だったが、「肉」の魔力にあっけなく陥落する。

  「久しく肉食ってねーからな。肉なんて、こんな機会じゃないとなかなか食えねーし。」

  「ふふ・・・それじゃあ、沢山お肉買っておかないとね。」

  「おう、頼むぜ!なんなら、買い物付き合おうか?」

  「どうしたの?普段、そんなこと言わないのに。」

  「自分が食う肉ぐらい、自分で選ぶ。」

  「・・・あんまり高いのは駄目だよ・・・。」

   苦笑を浮かべるあかり。隣の幼なじみは、久しぶりの栄養供給に心躍らせている。それを見ているうちに、あかりの
  苦笑は優しい微笑へと変わっていった。




   その日の簡単な夕食の後、浩之が何気なくテレビを見ていたら、来栖川電工のCMが入ってきた。今まで見たことのな
  い、新型のアンドロイドのCMだった。
   ちょくちょくテレビで見る若い女性タレントが、ベッドからいかにも眠そうな表情で、枕元の時計に手を伸ばす。時計
  を見て突然焦ったように起きあがり、「遅刻だ遅刻だ!」と叫びながら、壁に掛かっているスーツを手に取る。それを
  片手に部屋を飛び出してキッチンに向かうと、中学生ぐらいの男の子が料理をしていた。

  「おはようございます。今、朝食が出来ますからお風呂に入って下さい。入れておきました。」

   にこやかに笑って言う少年。反対にタレントの方は目を見開いて少年を見つめていた。

  「・・・君、誰?」

   女性タレントが言う。すると場面が変わり、その少年の全身がアップになった。カメラが彼の周りをくるくる回り、爽
  やかな男性の声が説明をしていく。

  「新型家事専用お手伝いアンドロイド、EVA−01『イカリシンジ』!待望の男性型家庭汎用アンドロイド新発売!
  裁縫躾炊事洗濯掃除、家事の『さしすせそ』を標準装備、あなたの生活を見事にサポートします。オプションでサテライ
  トサービスも取り付け可能!」

   説明が入ると、少年の頭に取り付けられた、二つの白いボタンのようなものがクローズアップされる。これがアンテナ
  らしい。

  「お問い合わせは、お近くの来栖川電工販売部まで!」

  「・・・はあ。」

   少年が笑顔で言うと、食卓に座って朝食を摂っていた女性タレントが、放心したように頷く。
   また、場面が変わり、先ほどの少年とは違うダークブラウンの瞳に、亜麻色の髪を持つ少年の全身が映し出された。

  「姉妹品のお手伝いアンドロイド、GED−01『ユリアン』もよろしく!」

  ♪くる〜すがわで〜んこ〜



  「・・・・・売れるのか?」

   正直すぎる、浩之の感想だった。




   翌日。土曜日。
   土曜日と言えば授業は午前中で終わる。浩之の高校は週休2日制ではない。
    だというのに、浩之が教室を出たのは午後二時を過ぎていた。理由は、簡単。寝坊である。昨日起こしてくれた優しい
  天使は、今日は来てくれなかったらしい。浩之に忠実すぎるが故に、昨日の会話を本気で受け取ったのである。それがわ
  かるだけに、浩之は十分睡眠を摂ったにもかかわらず、昨日と同じように不機嫌な表情で教室を出た。

  「あれ?」

   そこで浩之は意外な人物と対面した。普通の生徒達は帰るなら帰るなりに、部活なら部活なりに散らばっているので、
  教室の並ぶ廊下に人影はほとんどない。それにもかかわらず、浩之の教室の前に、ぼうっと佇むその人影は浩之がよく知
  っている顔だった。

  「芹香先輩。どうしたの?」

   艶やかで長い黒髪。透き通るような白い肌。端正な顔立ち。十分以上の美人だが、どこか「可愛い」、という要素も兼
  ね備えている来栖川芹香が、浩之の問いにぼそぼそと小さな声で答える。

  「え?俺を待ってたって?」

  こく。

  「・・・待ってたって・・・・二時間も?」

  こく。

   浩之の顔がさっと青くなる。とっさには言葉が出てこない。口をぱくぱくと開けて、混乱する頭を必死で整理しようと
  する。

  「せ、先輩・・・。俺、寝てたの知ってる?」

  こく。

  「・・・・・起こしてくれれば良かったのに・・・。」

   浩之がそう言うと、芹香がぼそぼそと小さな声で答えた。

  「え?よく眠ってたから起こすのは可哀想だった?だ、だけど、二時間も待つことは・・・。」

   浩之は言葉を途中で飲み込んだ。芹香が困ったような表情になったからだ。あかりとか雅史と比べると長い付き合いで
  はないが、芹香の性格上、寝ている浩之を起こせないのは浩之も承知している。だから、言葉を途中で打ち切り浩之はゆ
  っくりと頭を下げた。

  「・・・ごめん、先輩・・・・。」

   二時間も待たせたことが浩之の心の中に暗くのしかかる。芹香が勝手に来たと言えばそれまでだが、浩之には芹香が
  自分に会いに来てくれたこと、二時間も待っててくれたことが嬉しく、そして申し訳なかったのだ。だから、自然に頭を
  下げて、自然に謝った。

  す・・・・

   芹香の右手がすうっと伸びて浩之の頭に置かれる。何かと思って頭を少し上げて、上目遣いで芹香を見ると、芹香は
  相変わらず困った表情をしていた。

  なでなでなで・・・。

   そのまま芹香は浩之の頭を撫でる。一瞬驚いた表情を浮かべた浩之だったが、頭を撫でる柔らかく暖かい感触が気持ち
  よく、ゆっくりと目を閉じた。手のひらの暖かさが、浩之の頭に浸透し、それがゆっくりと下がって、浩之の心も優しく
  包み込まれるような感覚に陥った。それが、ひどく心地よかった。
   しばらく浩之は芹香のなすがままになっていたが、やがて芹香がぼそぼそっと囁いた。

  「え?辛いのは収まりましたかって?・・・・うん、ありがと、先輩。」

   浩之の言葉に芹香の手がすっと離れる。ちょっとだけ未練を感じたが、浩之は背筋を伸ばして立つと、にこやかに笑っ
  て芹香に話しかけた。

  「それで、俺に会いに来たって何があったの?」

   浩之の問いに、ぼそぼそと聞き取り辛い声で芹香が答える。浩之はもう慣れている。

  「・・・・・・え?今度の日曜、家でパーティーがあるから来ませんかって!?俺なんかが行ってもいいの!?」

  こく。

  「うわっ、来栖川家のパーティーなんて、想像するだけで・・・想像もつかねえよ!そんなところにパンピーの俺が紛れ
  込んでも本当に良いの!?」

  「・・・・・・・。」

  「え?きっと浩之さんならタキシードが似合うって?せ、先輩。オレ、タキシードなんて持ってないよ。・・・・・・・
  貸してくれるって?お友達を呼んでこいって言われてる?」

   芹香が、こくっと頷いた。かすかにひそめられた眉に、不安が見え隠れしている。近寄りたいんだけど、ちょっとだけ
  警戒心が残っている子猫のような仕草だった。
   それを見て、浩之の心は決した。

  「わかったぜ!そこまで言われて断られるか!タキシードってのがちょっと難点だけどな。ああ、先輩、そんな顔しない
  でよ!大丈夫!ばっちり着こなすからさ。」

   芹香の表情が微妙に変化して、頬がほんのり赤く染まり、恥ずかしげに俯いた。それが、浩之の心を情け容赦なくえぐ
  る。きゅん、と心が締め付けられた。
   感情表現の乏しい芹香の表情を理解するには、それなりの経験が必要である。浩之は、その訓練を十分積んでいるよう
  だった。




  「くろいかみ〜し〜ている〜おんな〜のこ〜、セ〜バスチャンにさらわれて〜い〜ちゃった〜♪」

   昔懐かしの「赤い靴」を版権無視で替え歌にして、それを口ずさみながら浩之は学校前の坂を下りていた。内容とは
  裏腹に、顔は緩んでいる。浩之の頭は、パーティーのことで一杯だった。
   芹香は、浩之の替え歌が示すとおり、いつもの通り校門で待っていた長瀬・・・セバスチャンに連れられて帰った。も
  ちろん、誘拐ではない。一緒に帰れないことにいつもいつも腹が立つのだが、今日に限って言えばそれほど腹は立たなか
  った。来栖川家のパーティーに心奪われていたのだ。

   だが、上機嫌で帰り道を歩いていた浩之の足が、何の前触れもなく止まる。浩之の顔がみるみる歪み、内心の動揺を
  顕著に伝えた。

  「しまった・・・。」

   思わず声に出してしまう。浩之は芹香の言葉を思い出していた。芹香は、たしか、こう言った。

  『・・・・・・・・。』

   そう、確かに言った。聞こえ辛かったが、「今度の日曜日」って言ってた。
   日曜って言ったら明日じゃねーか。ついとっさに引き受けちまったけど、あかりとの約束があったなあ・・・。しまっ
  た・・・。


   浩之の心の天秤に、あかりと芹香がかけられる。一瞬の均衡の後、天秤は大きく片方に落ちた。


  「・・・ま、帰ったらあかりに電話して断ればいーや。」

   そう一人ごちると、歩くのを再開する。笑顔を浮かべている頭の中では、来栖川家のパーティーの様子が、おぼろげな
  がら浮かんでいた。見渡す限り、財界、芸能界の著名人ばかり。さらに、一流のシェフが腕を振るった世界中の豪華な
  食事の数々。そして、浩之の両側には来栖川家が誇る見目麗しい二つの花。こんな体験一生に一度出来るかどう
  か・・・。
   ふと、あかりの笑顔が脳裏に浮かび、すぐに消えた。浩之は顔をゆがめる。そして短く舌打ちをすると、道ばたに転が
  っていた石を軽く蹴っ飛ばした。




   家に着くと、浩之はそのまま玄関にある電話に手を伸ばした。小さい頃からの付き合いだ。あかりと雅史と志保の
  電話番号は空で暗唱できる。慣れた手つきで、しかし若干緊張を含み、浩之は電話のボタンを押した。

  プルルルルルルルル・・・・プルルルルルルルル・・・・

   低く抑えられた呼び出し音が聞こえてくる。無意識のうちに、電話を握っている右手の人差し指で受話器をノックす
  る。癖とも言えない浩之の癖だ。
   12回ノックしたところで先方が出た。

  「はい、神岸です。」

   声で誰だかわかる。

  「あ、浩之です。」

  「あ、浩之くん?まー、久しぶりねえ。」

  「はあ・・・。」

   あかりの母親だ。

  「そういえば明日来るんでしょ?おばさん、思いっきり腕を振るうから期待しててね。」

   浩之の心がチクリと痛んだ。

  「あの」

  「ああ、ごめんごめん。あかりでしょ?」

  「あ、はい・・・。」

  「ごめんねー。あかり、一度帰ってきたんだけど、志保ちゃんと遊びに行くって言って、すぐ出て行っちゃったの。夜に
  なったら帰ってくると思うけど、折り返し電話させようかしら?」

  「・・・お願いします。」

  「うん。それじゃ、そう言っておくわ。じゃ、浩之くん明日ね。」

  「はい、さよなら。」

   ほとんど一方的に話しまくられて浩之は電話を切った。電話をする前よりも重くなった心を感じ、ふう、とため息をつ
  く。

  「・・・・まあ、いいか。」

   自分の心を口に出した、と言うより、自分に言い聞かせるように言うと、浩之は自分の部屋に向かった。



   制服を脱ぎ捨てると、バフッとベッドに倒れ込んだ。それほど動いたわけでもないのに、ひどく疲れたように感じる。
  心を占めるのは息苦しい罪悪感。自分のうかつさを呪うばかりである。

   あかり。本当に嬉しそうな表情だったな・・・。行かないって言ったらがっかりするんだろうな・・・。

   芹香先輩。わざわざ俺のことを二時間も待っててくれた。やっぱり行かないって言ったら、がっかりするんだろう
  な・・・。   

   はあ、と今日何度目になるのかわからないため息をつく。どちらを取るべきなのか・・・浩之は、あかりの家と来栖川
  のパーティーを、もう一度天秤に掛けた。
   正直言って、何時でも行けるあかりの家よりも、来栖川のパーティーに出てみたい、という気持ちの方が強い。浩之が
  自己中心的な性格をしていれば、来栖川のパーティーを即断で選んだだろう。
   しかし、浩之はそんな性格をしていない。先に約束したあかりの約束を、自分の都合で簡単に蹴るのは良心が許さなか
  った。
   浩之は、もう一度、それぞれの場合をシミュレートして、頭に思い描いていく。





  「そうだ、簡単じゃねーか!」

   来栖川のパーティーに出席している自分を想像していた浩之は、そう小さく、だが力強く呟いた。
   そこでの自分は、あかりのことが引っかかって良心の呵責にさいなまれ、パーティーを楽しむことなど出来ていなかっ
  た。それに、その後も後悔してしまうことになりかねない。何よりも、自分の都合で予定をころころ変える先例になって
  しまう。自分がそんな人間になることは、自分が許さなかった。

   浩之はベッドから飛び起きて、全校生徒名簿を棚から引っぱり出した。それをぱらぱらとめくりながら、トントンと音
  を発てて階段を下りていく。端から見ると危なっかしく映るが、十五年以上のここでの生活で、浩之は何処に階段がある
  のか熟知していた。
   ちょっと急ぎ足になりながら浩之は玄関に向かう。いつもいつも、不便に思いながらも何とか使ってきた電話がそこに
  ある。浩之は受話器を掴むと、名簿に書いてある電話番号をゆっくりと押した。生まれて初めてここに電話を掛ける。
  緊張が浩之の背中を走った。

   プルルルルルルルル・・・・

   右手の人差し指がノックを始めようとしたとき、先方が出た。

  「はい、来栖川です。」

   野太く低い男の声。浩之の脳裏にある男の肖像が浮かぶ。背中に脂汗が浮かんだのは、決して暑いという理由ではな
  い。

  「私、来栖川芹香さんの後輩で藤田」

  「何のようだ、小僧。」

   浩之の声を途中で遮る。あからさまに警戒の色がその声に満ちていた。しかもこの言い方。来栖川家にかかわっている
  人間で浩之が知っているのは、来栖川芹香、綾香姉妹と、いつも彼女らの後ろに控えている長身の執事だけだ。そして、
  芹香と綾香はこんな野太い声はしていないし、浩之の事を「小僧」と呼んだりしない。
   浩之はちょっとひるんだが、すぐに気を取り直し口を開いた。

  「あのさ、悪いんだけど芹香先輩に話すことがあるんだ。代わってくれねーか?」

  「わしが芹香お嬢様の代わりに聞いておいてやろう。何だ?」

   あっさりと切り返される。来栖川家の老執事が電話に出たときから、何となく予想はついていた。

  「ちょっと本人に直接言いたいんだよ。だから長瀬さ」

  「かあああああああああああぁぁぁぁぁぁぁぁーーーーーーーーーーーーーーーーーッ!!」

   浩之の耳がキーンとなった。耳元で、とてつもなく大きな声で叫ばれたのだから当然である。だが、顔は見えないので
  ダメージはあまり受けなかった。
   元もと浩之は気が長い方ではない。むしろ、短いと言える。ちょっと言い方を間違えただけで叫ばれ、カチンと来ない
  はずが無い。だが、負けじと怒鳴り返そうと大きく開いた浩之の口が、一瞬の間をおいて閉じていった。

  「・・・セバスチャン、大切な用なんだ。だから、先輩に直接言いたい。お願いだから、代わってくれ。」

  「駄目だ。大旦那様から、芹香お嬢様に悪い虫を近づけるなと言われておるのだ。」

   少しめんどくさくなった浩之の心に、セバスチャンに伝言を頼もうか、という考えが浮かぶ。事が事だけに、セバスチ
  ャンも芹香にちゃんと伝えるだろう。
   しかし、その考えはすこしの思案で廃案へと追い込まれた。自分が圧倒的に悪いのだから、直接謝りたかった。これが
  浩之の浩之たる所以である。
   だが、めんどくささが怒りに変わるのには、それほど長い時間がかからなかった。これも、浩之の浩之たる所以であ
  る。

  「・・・電話で話すことも出来ないのかよ・・・。」

   ぼそりと浩之が呟く。

  「来栖川家のお嬢様と一般人とを一緒にするな。」

   何度も言われた台詞だったが、この台詞で抑えていた浩之の心が解放される。簡単に言えば、浩之はキレた。

  「それが、それがほんとに芹香先輩のためなのかよ!友達と電話で話すことも出来ないのが、芹香先輩にとって良いこと
  なのかよ!」

  「五月蠅いぞ、小僧。」

  「うるせえ!もしホントに芹香先輩のことを考えているんだったらなあ、もっと自由にさせろよ!ずっと屋敷に閉じこめ
  るような生活なんてなあ、なんの価値も無いじゃねえか!」

  「・・・・・・。」

   セバスチャンは沈黙する。反論できなかったからだ。誰よりも、セバスチャン自身が強く感じていることであったから
  だ。
   セバスチャンにして見れば、もっと他の同級生と芹香が交流を持って欲しいと願っている。(異性である浩之は別であ
  るが)沢山友達を作って欲しいと願っている。だが、それはセバスチャン自身の願いであって、自分の主人の願いではな
  いのだ。そして、主人の願いは、生真面目なセバスチャンにとって絶対なのである。
   だから、沈黙した。

   セバスチャンも辛いところである。

   セバスチャンが黙ってしまったことによって、浩之も口を噤んだ。ふう、ふうという浩之の荒い呼吸が、お互いの
  受話器に満ちている。やがて、それを破ったのはセバスチャンの方だった。

  「・・・なんと言われようと、芹香お嬢様を出すわけにはいかぬ。」

  「・・・・・そうかい、わかったよ。」

   全然わかっていない口調で浩之が言う。そして、あばよ!、と捨てぜりふを放つと受話器を叩きつけるように置いた。
   叩きつけられたセバスチャンは、はあ、と重いため息を付くとゆっくりと受話器を戻す。が、すぐに平静を取り戻し
  て、何事もなかったかのように仕事に戻っていった。



   怒りが収まらない浩之は、荒々しい足取りで自室へと戻っていく。無意識のうちに力が込められ、階段がギシギシと
  悲鳴を上げた。それに気付くことなく部屋に戻ると、「やってられるか!」と叫んで手に持っていた名簿を床に叩きつけ
  る。激昂すると行動に出てしまう、浩之の悪い癖だ。だが、一度行動に移すと冷えるのも早い。行き場のない憤りを名簿
  にぶつけたためか、幾分冷静になって浩之はベッドに座った。
   ややもすると投げやりになりかける心を抑え、そのまま上半身を横倒しにベッドに寝転がる。そのまま腕を頭の後ろで
  組んで、天井をきつくなった目で睨み付けた。
   元もと、お節介焼きの性格をしている浩之は、自分のせいで迷惑をかけることを嫌う。すでに迷惑をかけることは確定
  してしまっているが、出来る限り最小限に留めたいと思っていた。それに、電話の一件で意地になっている。


   そのままの体勢で、浩之は目を閉じる。すると、たぎるように内側で暴れていた怒りが、沈静化されていくことが自覚
  できた。それと共に、これからどうするのか考えがまとまっていった。
   やがて、浩之は腹を決めた。身体を返し、床に落ちている生徒名簿を拾い上げる。それをパラパラとめくり目当てのも
  のを見つけると、浩之は名簿を掴んだまま部屋を飛び出した。





   電話から数十分後、来栖川家の大きな門の前に立った浩之は、大きく深呼吸をする。大きく吸って、大きく吐く。それ
  を二回繰り返し、次に今までで最も大きく息を吸い込んだ。

   一瞬の間。

  「芹香せんぱ〜〜〜〜い!!」

   セバスチャンも負けるほどの大声が辺りに響く。

  「俺だ〜!浩之だ〜!!ゴメン、俺、パーティーに行けなくなった!!マジでゴメン!この埋め合わせは絶対する!俺が
  悪かった!!」

   そこで一旦口を閉じる。そして、また大きく息を吸った。

  「聞こえたー!?聞こえたら返事・・・じゃなくて、窓から顔だして!せんぱーい!!」

   ドカドカドカ、と大きな足音を発てて、来栖川家からセバスチャンを先頭に使用人達が現れる。そしてまだ大声で叫ん
  でいる浩之に殺到していった。

  「小僧!一体何を考えておる!」

   それを聞いて、浩之がへらっと笑った。

  「聞こえただろ?芹香先輩に用があったから、こうしてやってきたんだよ。」

   そう言うと、また大きく息を吸う。

  「芹香せんぱ〜い!!」

   セバスチャン達が一斉に浩之に躍りかかり、押さえ込んでいく。浩之は押さえ込まれてもまだ叫んでいた。

  「何事なの!?」

   そのとき、いつの間にか綾香がやってきていた。それを見て浩之は少しほっとした。

  「綾香、いいところに来た。芹香先輩に謝っといてくれ。俺、パーティーに行けなくなったんだ。」

  「え!?ホント?」

  「ああ、悪い。行けるって言っちゃったけど、色々な諸事情があって・・・。」

  「・・・そう。残念ね。まあ、都合が悪いんならしょうがないけどね。」

   見るからに落胆の表情だ。あまりに必死になっていたため、浩之が忘れかけていた罪悪感が、またむくむくとわき上が
  ってくる。

  「・・・ゴメン。」

  「いいよ。で、一体何の騒ぎだったの?」

   にこやかに綾香が問う。

  「だから・・・その事を言いに来たんだよ。」

   二三度、目をぱちぱちと急いで瞬きした綾香だが、意味を理解すると驚きの表情を隠そうともしなかった。

  「わ、わざわざそのことだけを言いに来たの!?」

   こっくりと頷く浩之。

  「はあ、呆れた。なんだか騒いでいるから、大変なことが起こったのかと思ったわ。」

   浩之は苦笑する。いつの間にか、浩之の両腕を掴んでいた使用人達は離れていた。

  「全く・・・いちいちそんなことで来なくても、来週学校で姉さんに言えば良かったのに・・・。」

  「そうだな。」

   ほぼ反射的に浩之は相づちを打った。だが、綾香の台詞を理解すると、今度は浩之が驚きの表情を浮かべる。

  「へ?だって、来週じゃ間に合わないじゃん。」

   今度は綾香が「はあ?」と呟いて、変なものを見るような目つきで、浩之の顔をまじまじとのぞき込む。

  「だ、だって、パーティーって明日じゃねーの?」

  「何言ってんの?パーティーは今度の日曜よ。」

  「今度の日曜って、明日じゃねーか。」

  「・・・ああ、そうじゃなくて、来週の日曜日。」

   浩之は惚けた顔をして、ぱちぱちと瞬きを繰り返す。やがて綾香の言っている意味を完全に理解すると、先ほどと同じ
  ような大声を張り上げた。

  「ら、ら、来週の日曜だと〜〜!?」

  「そーよ。大体、考えてみなさいよ。今日姉さんから言われたんでしょ?姉さんが前日になって誘いに来ると思う?」

   そう言われて見れば、そうだな、と浩之は納得した。
   つ、と視線を向こうに飛ばすと、芹香が玄関のところでぼうっと立って、浩之を見ていることに気付いた。浩之は苦笑
  を浮かべて、手を大きく振った。

  「・・・で?」

   綾香が小悪魔のような笑顔を浮かべて浩之に一歩近づく。

  「何の用?」

   浩之がかあっと赤面する。それを見てふふっと小さく笑う綾香に、尖った黒い尻尾が付いているような錯覚に浩之は陥
  った。





   来栖川邸から辞し、帰路に就く浩之の心には、恥ずかしさはあっても罪悪感が溶けるように消えていた。自然に、足が
  軽くなる。時々先ほどの自分の醜態を思い出しては苦笑する、を繰り返して浩之は自宅への長い道をゆっくりと歩く。空
  はいつの間にか帳が落ちつつあり、鈍いオレンジと黒が混ざった空には、三日月と金星が顔を出していた。


   家に帰ると同時に玄関に置かれている電話が鳴った。すぐに浩之が取る。

  「はい、藤田です。」

  「あ、浩之ちゃん。電話くれたよね。どうしたの?」

   心なしか不安が見え隠れする声であかりが問う。浩之は、小さい頃のいたずらっ子に戻ったような表情を浮かべた。

  「いや、実は明日のことなんだけどさ。」

  「う、うん・・・。」

   緊張が伝わる。

  「明日、あかりの家に行くから。」

  「はあ?」

   思わず、あかりは惚けた答えを返す。しょうがないことだろう。そのまま絶句しているあかりに、くっくと小さく笑い
  ながら浩之が続けた。

  「俺が行っても平気だろ?」

  「うん。だ、だって昨日約束したよ。浩之ちゃん、忘れちゃったの?」

  「いや、んなことねーよ。」

   電話越しにも、あかりが混乱していることが手に取るようにわかる。そのまま黙ってしまった浩之に、あかりがためら
  いがちに口を開いた。

  「どうしたの?浩之ちゃん、なんだか変だよ?」

  「何でもねーよ。ちょっと色々あってな。」

   くすくすと笑う浩之に、あかりはどうすればいいのかわからなかった。



   翌日。
   ぐっすりと寝た浩之が起きたのは、午前中もそろそろ終わろうかとしている時だった。ここ数日いい天気が続いてお
  り、今日も御多分に漏れずいい天気である。カーテンの隙間から溢れる日の光が、うっすらと部屋の中を照らし出してい
  る。
   浩之はゆっくりと身体を起こすと、カーテンを開けた。シャッと言う音が響き、優しい日光が浩之の身体に降り注ぐ。
  目が細められて入光量を抑えてはいたが、瞳を貫いた光線が、浩之の目に浸みるのは避けられなかった。
   目を閉じたり開いたりを繰り返すと、だんだん光に目が慣れてくる。起き抜けで鈍った頭もそれに伴い、やや靄が晴れ
  てきた。身体をぐっと伸ばすと、心地よく力がみなぎってくる。

  「・・・・・うし。」

   短く言うと、パジャマ姿のまま浩之は階下へ降りていった。




   ぴんぽ〜ん、と家のチャイムが鳴る。反射的に浩之が時計を見ると、時刻は午後五時である。まったりと家の掃除をし
  ていた浩之は手を止めて玄関に行った。 誰が来ているのかは、容易に想像が付いた。そして、その想像は外れていなか
  った。

  「こんにちは〜、浩之ちゃん。」

  「おう、来たか。それじゃ、行くか。」

  「もう用意はいいの?」

  「バッチリだ。」

   そう言って浩之は靴を履いた。いつあかりが来てもいいように、家の中でも外出着になっていた。



   浩之とあかりは、二人で近くのスーパーに向かった。そこで楽しそうに食材を選ぶ姿は、どう見ても新婚夫婦のそれで
  ある。

  「ねえねえ、浩之ちゃん。野菜どうしよっか。」

  「焼き肉の野菜っていったら・・・にんにく。」

  「・・・それだけ?」

  「・・・キャベツ、にんじん、ネギ・・・他には?」

  「ナスなんかも美味しいよ。」

  「おお、秋ナスか!いいねえ。」

   だが、その微笑ましい光景に、自分たちが気付いているのかどうかは、本人達でないとわからないことである。

  「あ、浩之ちゃん、ちょっと待って。」

  「なんだ?」

  「・・・・ほら、こっちの方がいいよ。」

  「・・・同じナスじゃねーか。」

  「触ってみて。押すとわかるよ。」

  「ほう、こっちの方が弾力があるな。」

  「弾力がある方が美味しいの。」

   さすがあかり・・・と浩之は、幼なじみの再認識。
   その後も、あかりは熟練主婦も真っ青の買い物ぶりを示した。焼き肉、という栄養が偏りやすい食事でも、出来るだけ
  栄養を考えて食材を選ぶ。さらに、スーパーのタイムサービスもちゃんと把握しており、経済面でも余念がなかった。








   その日の夕食は非常に楽しいものになった。あかりの母親が、料理の先生の肩書きに恥じない腕を、惜しげもなく披露
  した食事は、素晴らしいものであった。焼き肉、という一見単純にみえる料理も、あかりの母親が一子相伝と自称するた
  れに十五分ほど漬け込むだけで、その味は驚くほど良くなる。その他にも、焼き肉に付き物であるワカメスープやキムチ
  なども手作りであり、サラダもどういう工夫がされているのか、韓国風の味付けであった。
   また、あかりの父親も母親と同じく、娘と浩之を愛情を持ってからかう。それだけでなくまだ未成年の二人にビールを
  勧めて、照れて赤くなった二人の表情、酔って赤くなった二人の表情を見て大笑いしていた。会話と笑い声が絶えない、
  その声を聞いているだけで、心が和むような食事会になった。



   楽しい時間はあっと言う間に過ぎてしまう。午後7時前に食べ始めたのだが、気付いて見れば午後10時を回ってい
  た。そろそろお暇しようかと、浩之が立ち上がる。

  「すいません、オレ、そろそろ・・・。」

  「ああ、こんな時間か。明日も学校あるしな。」

   浩之と向かい合っているあかりの父親が言った。今は、あかりと母親は食器を洗っている最中である。「オレには息子
  がいないから、一緒に酒を呑む楽しみがない。」と冗談半分に嘆いていたあかりの父親に付き合う形で、一緒に酒を呑ん
  でいたのだ。浩之はそれほど酒に強くなく、すぐに顔に出てしまう質なので、すでに顔は真っ赤に染まっていた。

  「浩之ちゃん、帰るの?」

   流し台からあかりの声が響く。浩之がああ、と答えると、あかりが母親と一緒にリビングに出てきた。

  「浩之くん、沢山食べた?・・・ふふっ。そうね、見てればわかるわよね。そうそう、浩之くんこれ持っていって。余り
  物で悪いけど。」

   そう言ってあかりの母親が、大きめのタッパーを二つ差し出す。中にはたれに漬け込んだ肉と、キムチが入っていた。

  「すいません、いつもいつも・・・。」

   ありがたく浩之は受け取る。一人暮らしの浩之には、本当に有り難いものだ。

  「ヒロくん、また何時でも来いよ。ウチは女ばっかりだから、オレも寂しいんだ。」

  「はい、ありがとうございます。」

   冗談混じりの父親に、浩之は笑って礼を言う。色々気を使っていることがわかるだけに、申し訳なく思う気持ちも重ね
  て礼を言った。そして、神岸家の面々に見送られて、色々なことをまとめて礼をもう一度言うと、浩之は玄関を出た。
   外は幾分肌寒さを感じるが、浩之の身体は暖かだった。それは、酒の力だけではない。

  「浩之ちゃん、送ってくよ。」

   歩きだそうとする浩之に、急いで靴を履いているあかりの声が追いかけてきた。浩之はあかりがやってくるのを待って
  口を開く。

  「送ってくって・・・オレん家に着いたらあかりはどうするんだよ。」

  「え・・・?」

  「結局、オレがまたあかりを送ることになるじゃねーか。お前送った後、オレはどうなる?」

  「・・・・また私が送ってく」

  ポカッ。

  「あっ!」

  「・・・少し酔ってやがるな?おとなしく寝とけよ。ガキじゃねーんだから一人で帰れる。」

  「そう?それだったらいいけど・・・。」

   よく見ると、あかりの頬も若干赤みがかっている。女は酔うと色気が増すと言うが、あかりの場合は逆に子供みたいに
  みえる。
   浩之は苦笑を浮かべてゆっくりとあかりの頭を撫でた。撫でられているあかりの方は、きょとんとした顔つきでされる
  がままになっている。

  「ほら、明日、学校遅刻するぞ。子供は早く帰って寝ろ。」

   意味をじっとかみしめるような表情をしていたあかりだったが、やがて笑顔を浮かべてこくっと頷いた。いつもにまし
  て子供っぽいあかりに、浩之の方が面食らう。
   しかし、そんな浩之には全く気付くことなく、あかりは玄関に向かった。そして、玄関の前でくるりと身体を翻す。

  「じゃ、また明日ね、浩之ちゃん。」

  「おう!今日、サンキューな。美味しかったって、おばさんに言っといてくれ。それと、礼も。」

   あかりは笑顔を浮かべたまま、またこくっと頷いた。そして小さく手を振ると、「気をつけてね」と言う。浩之は手を
  挙げてそれに答えると、最初の一歩を踏み出す。そのまま後ろを振り返ることなく歩く浩之だったが、後ろであかりが
  浩之の背中を見送っていることは、何故か確信が持てた。

  「・・・・・さんきゅ、あかり。」

   ぼそっと浩之が小さな声で言った。何に対しての礼なのか、おそらく本人もよくわかっていないだろう。自然に口から
  漏れた言葉だった。
   だが、次の浩之の呟きは、呼びかけた人間へのメッセージと言うより、自分への戒めの要素が強かった。

  「・・・・・・ごめんな、あかり・・・・。」

   しかし、言葉の内容とは裏腹に、浩之はすっきりとした笑顔を浮かべていた。そして、ゆっくりと身体に力を込める
  と、昂揚する心のままに走り出す。
   涼しい風を身体に感じながら、浩之は、昨日と今日の出来事を、心に深く刻み込んだ。同じ過ちを、繰り返さないため
  に・・・。


   それは、些細な出来事。
   だけど、貴重な出来事。
   浩之が、浩之になるために必要だった、出来事である。





  終


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