母への暴言

☆ 文学青年の頃  その1

 その頃、29才を「青年」と称していいのか、ともかく私は まだ青春の真っ只中にいた。否、そう思っていた。
そして、「青春」にも、そろそろ決着の時期が近づいている予感もしていた。
 私は青春の総括譜としての記念誌に取り組んだ。題して【生きる】ガリ版刷り50部限定出版 …B5判70頁…と 書けば恰好いいけど、当時熱中していた青年団機関誌に較べると薄っぺらな ものだった。
 その中に、当時、町内の婦人層の人気を集めていたおフクロの交流グループ の機関誌に生意気にも寄稿した挑戦状を掲載している。記録では、昭和44年- 27才の時とある。
 曰く、

"断絶" 思いつくままの暴論 …の一節として… 『親 孝 行』

 「子を持って知る親の恩」「親孝行したい時分に親はなし」と言われるように、 子は自分だけで生きてきたような甘えから、真の親の苦労を知り難い。しかし、 いつかは親としての苦労を知ることになるのである。親は子を育て、子は親になる。 …永遠に繰り返されるこの輪廻…その中で親が子を育てることは当然の責務であり、 その見返りを子に期待すべきではないと思う。なぜなら、その子は親となって、 親から教わったすべてと自分が学んだすべてを合わせて、子に伝えることに専念 しなければならないからである。また、「自分が老いた時に養ってくれるだろう」 という期待で子を育てることは、愛ではなく打算であるに違いないからである。

 子孫を残していくことが人類の努めであるとするならば、純粋な愛として、その努めを 果たしたい。子は自分だけのものではなく、社会から預けられたものであり、親の愛 によって立派に成長した子は、親元を離れて社会に戻るのである。子は親を踏み台にしても、 より高い次元に進む…そこに、人類の進歩があり、 親の喜びがあるのではないだろうか。

 ここまで書いてくれば、「それでは、親として全然良いことがないではないか」 「勝手なことばかりで、自分が親になってから寂しいだろうに…」と、反論されるに 違いない。私は、「親以上の親になり、自分以上の子を育てる」ことで、親孝行を 果たしたいと思う。
 ただ、老齢の親を優しく労り、肩を叩くことで帳消しにするには、あまりにも 親の恩は大きすぎるからである。

 今の親に、それだけで満足してもらうことは無理 だろうが、私は、そのことで喜びを感じ、子どもの成人後は自分の一生の締めくく りのために、一層、老齢期を伸び伸びと生きてみたい。逆に言えば、老後を看て もらいたいから、あとは息子に頼らねばならないと考えるから、子のすべてが気懸かり なのであり、死そのものを含めた究極の幸福を目指した日々を過ごすことに専念 するとすれば、およそ嫁の悪口を言って廻る余裕などないことになろう。

 では、老いた親の生活はどうなるのか。私は「親と子は、最愛の先輩と後輩の関係 である」と思っているから、子が親の老後を看ることは、自分が生かさして貰っている この社会を形成してくれた先輩に対する敬愛と感謝の念で、快適で伸び伸びとした環境を 与えることだと考える。
 親は子の人格を認め、子は親の労苦に感謝する…この美しい親子関係が崩れることは ないだろろう。むしろ、自分の親を大事にする親孝行よりも、先輩として親のみへの 敬愛のみでなく、隣のじいさん、ばあさんへも変わりなく接することができれば、 「老人の日」など不要であろう。

 すべての先輩に対する感謝と生きる喜びに満ちた社会ができたとき、はじめて、 自我の独立と社会性という相反する大切なことが両立できるように思えるのです。…

 今読み直してみて、なんとまぁ思い切ったことを書いたものだと感心するが、 あれから30年近く経って、当時の母より10才も歳を加えた今となっても、私の親子感 は変わらない。これでよいと思える。願わくば、私の娘や息子も、今このように思ってくれて いればとさえ思う。

 この文に、母のメンバーでは激論もあったろうに、母は一言の感想も口にしなかった。 共働きの私たちに代わって、母はいつも喜々として二人の孫を育て、婦人会役員の マスコットとして連れて回ってくれていたようである。
70才で慢性肝炎が悪化して歩行も ままならぬ体になっても、娘の中国留学を喜び、息子のT大学の入学式には「死んでも 上京する」と言って靖国神社に詣で、両親の参列しか認められなかった日本武道館での入学式の 模様を涙して聞いた。
 … そして2ヶ月後、黙ったまんま逝った。

 私は長女が、「私の29才」になった時、息子とともに、この【生きる】を手渡そうと 考えている。

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