☆ 文学青年の頃その2 29才の私は、「青春」にも、そろそろ決着の時期が近づいている予感
を持っていた。 社会連帯を、明るい地域づくりを核に推進したいと強調する自分も、組織と
いうものには少なからず不信感をもっている。 農協の言を借れば、”じっとしていては、どうせ商売人から買う物だから
、少しでも安くお世話しているのだ”ということであるが、確かに現状は
そうだけれども、我々としては、それが判らぬ組合員だから、効果的な家計の
運用を教えて貰いたいし、”あなたの経営規模では、ティラーは無理だから
隣と一緒に買いなさい”、”農協のバインダーを使いなさい”…そんな指導を
こそ求めているつもりだが… |
このことは、安保条約が労働者の賃金に直結しているかのように主張する
労働組合の方向や自民党が米の作付減反を強行せねばならなくなる以前に、
たとえ選挙で不利であったとしても、何故、水稲偏重の警鐘を鳴らしてくれ
なかったのか、中央での全国青年祭の予選にのみ追われがちの末端青年団の
活動にも見られることである。
特に、米の作付減反問題では、何もかも与党の政策に反対だけを唱える 野党が、この時とばかり農民の側に立って追求しているが、広い視野から考えれば 農民の打撃もさることながら、貴重な税金の中から奨励金などという無駄金を 使わねばならなくなった政府の責任を問わねばならないだろうに、 与野党とも、票田としての農民を利用しているとしか思えないのは、百姓の ひがみであろうか。 このように、個々の利益を守るための組織が横とつながり、上部機関を
生み出していく過程のうちに、いつの間にか、一部のリーダーに左右され、
その構成員は上部の方針に従い動かねばならなくなってしまう現状は、
まだまだ経験不足の、未熟な民主主義の弊害であろうか。 この「ノーキョー論」にも、56才にまで、職場という組織の中で飽きる
ほど生きてきた自分として、基本的には今でも共感を覚える。 まさに、地域に根ざす農協には、いま国民が最も求める環境と福祉の 分野にこそ活路がありそうな気がするのだが。 |
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