ノーキョー論

☆ 文学青年の頃  その2

 29才の私は、「青春」にも、そろそろ決着の時期が近づいている予感 を持っていた。
 私は青春の総括譜として【生きる】と題する、ガリ版刷りの文集を友人らに 配って読んで貰った。
 その中で、当時の青年団の組織への危機感、 農民の願いが反映されない政治への焦慮、農協のあり方についての疑問など、 思いつくままの若い意見を書いている。
 この夏、テレビドラマ「北の国から」を繰り返し見ながら、「このドラマ のテーマも変わらないなァ」と、いたるところで滲んでくる涙を拭っていると、 農協への非難の画面に変わった。そうだ、かって自分は農協に対して、どんな 思いを持っていたろうか… そんな訳で、その【生きる】を読んでみた。

 ノーキョー 

 社会連帯を、明るい地域づくりを核に推進したいと強調する自分も、組織と いうものには少なからず不信感をもっている。
 農民の利益を守るために組織された農協も、いつの間にか巨大な怪物と化し、 「隣も買わしたけん…」と農民の虚栄心につけ込んで、農機具はまだしも車や 洗濯機に至るまで買わせるまでに発展?した。
わずかな米の売上金から自動的にその代金は差し引かれる一方、自分の金を 引き出すのさえ、窓口の娘に気兼ねしてオズオズと印鑑を差し出さねばならぬ ような仕組みになってしまった現状は、真に農民生活のためという大義に 沿うものであろうか。

 農協の言を借れば、”じっとしていては、どうせ商売人から買う物だから 、少しでも安くお世話しているのだ”ということであるが、確かに現状は そうだけれども、我々としては、それが判らぬ組合員だから、効果的な家計の 運用を教えて貰いたいし、”あなたの経営規模では、ティラーは無理だから 隣と一緒に買いなさい”、”農協のバインダーを使いなさい”…そんな指導を こそ求めているつもりだが…
 しかしそれも、農協に責任があるのではなく、我々組合員が常に全体の利益 のために、その方向を見極めていかねばならないことは勿論である。

 このことは、安保条約が労働者の賃金に直結しているかのように主張する 労働組合の方向や自民党が米の作付減反を強行せねばならなくなる以前に、 たとえ選挙で不利であったとしても、何故、水稲偏重の警鐘を鳴らしてくれ なかったのか、中央での全国青年祭の予選にのみ追われがちの末端青年団の 活動にも見られることである。

 特に、米の作付減反問題では、何もかも与党の政策に反対だけを唱える 野党が、この時とばかり農民の側に立って追求しているが、広い視野から考えれば 農民の打撃もさることながら、貴重な税金の中から奨励金などという無駄金を 使わねばならなくなった政府の責任を問わねばならないだろうに、 与野党とも、票田としての農民を利用しているとしか思えないのは、百姓の ひがみであろうか。

 このように、個々の利益を守るための組織が横とつながり、上部機関を 生み出していく過程のうちに、いつの間にか、一部のリーダーに左右され、 その構成員は上部の方針に従い動かねばならなくなってしまう現状は、 まだまだ経験不足の、未熟な民主主義の弊害であろうか。
 この意味で、一人のリーダーの十歩より、十人の構成員の一歩が期待 されるのであろう。

 この「ノーキョー論」にも、56才にまで、職場という組織の中で飽きる ほど生きてきた自分として、基本的には今でも共感を覚える。
 それにしても田舎の若造が生意気に感じたことが、今でもあまり時代錯誤を 感じさせないほど、この世は変化がなかったのであろうか。それとも、これ までの年月を経てさえも解決できなかったことであろうか。
 佐賀県でも 組織の一本化が挫折し、改めて農協の拠点化が議論されているようだ。
56才の自分が、青年から少し変わったことは、巨大化し過ぎた農協の職員 さんの仕事を創出しなければならないだろうということだ。そのためには、 これまで農民であった者の水田を、どのように集約化し、活用し保全するかと いうことであろう。

 まさに、地域に根ざす農協には、いま国民が最も求める環境と福祉の 分野にこそ活路がありそうな気がするのだが。

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