沖縄のこと

☆ 文学青年の頃  その4

 佐里温泉を擁する相知町佐里地区の青年団は
【 湯乃里 】と称する 機関誌を持っていた。18才から29才までの間、私は団員として、この「湯乃里」 の発行に関わった。何かを書くこと、訴えることは当時の私にとって本当に 大切なことだった。
 昭和39年10月号に、当時、東京オリンピックに沸き立つ国内世論に挑戦する かのような私の創作文が残されている。 その時私は、22才であったはずである。

爪 跡

 昭和39年9月7日、東京オリンピック開幕を一ヶ月後にひかえて、台風のため 一日遅れた聖火はカラリと晴れあがった沖縄に到着した。この日、まだ夏の 名残を惜しむような南国の太陽がギラギラと照りつける沿道には、朝早くから 聖火を迎えようと押し掛けた人々が聖火搬送隊の到着を今や遅しと待ち受けて いた。

 さすがに、さわやかな風だけは秋の訪れを示すようにそよいでいた。 しかし、人々はそうした機構の変化に振りむこうともしない。沖縄が日本に 復帰してから久しいことになるが、米軍主要基地としての使命を負わされて きた沖縄は、日本国でありながら今なお政府を異にし、半占領国のような 立場に甘んじてきた。
 この沿道の両側に並んだ家屋には原色と横文字が氾濫し、観衆の中には多くの 米兵の姿が抜きん出て眺められた。その中で揺れ動く日の丸の波が人々に とっては懐かしく感ぜられるのである。人々は砂漠でオアシスの緑を見つけた ように、目に沁みるこれらの小旗に早くも興奮しざわめいていた。

 やがて、そのざわめきを掻き分けるようにして先導車が進んで来た。 トーチを掲げて、その頬に感激と誇りを露わにして、逞しく走る若者の姿を 見たとき、そのランニングシャツの胸に鮮やかに描かれた日の丸を見た時に、 人々の歓呼と拍手は最高に達した。彼らは、この時ばかりは沖縄に生まれた 喜びを感ずることができた。開催国として、最初に「世紀の祭典」と言われる 東京オリンピックの聖火を迎えることができたのであるから…  人々は、長かった今日までの忍従を振り返ってみる。日本という国に属した かった。「自分は日本人だ!」と叫びたかった。人々はそれらのことが一度に 実現したかのように錯覚し狂喜した。
 現実に彼らの地は日本のものであり、彼らは日本人である。しかし、彼らの 現実は、この日まで余りにそのことからかけ離れていた。いや、かけ離されていた という表現が適当であるかもしれない。彼ら自身でさえ、この日初めて日本人と なったように錯覚するのも無理からぬことではあった。
 人々は、修学旅行で憧れの東京へ行った女高生が、銀座のど真ん中で、同じ 年頃の女高生に囲まれて、「あちらでも靴を履くの?」、「まだパンパンがいる そうじゃない?」、「あなた日本語上手ね」などと質問を浴びせられ、初めは 丁寧に答えていた彼女も、ついには「私たちは日本人じゃあないのでしょうか!」と 絶叫して、その場に泣き伏してしまったという話に激怒したことなども、今や完全に 忘れ去っていた。 …そして、あの忌まわしい戦争のことすらも…

 彼らは、今こそ自分が日本人であり平和が彼らを包んでいることを、その目で 確かめることができた。
その人垣のはるか彼方に、白壁があちこちと崩れ落ちた古ぼけた土蔵があり、 その窓に打ちつけられた

桟を揺すりながら、身を乗り出すようにして何かを叫んで いる老婆がいることに気づくものはただ一人としていなかった。
 気でも狂って軟禁されているのであろうか。伸びきった白髪を振り乱し、檻に しがみついて吠える猿のように猛り狂っている老婆は、目の前を通り過ぎようとする 聖火隊に向かって絶叫しているのだが、その声は人々の歓呼にかき消されて、その 意味を解することはできなかった。
 その枯れた手に、それほどの力があろうかと思うほど木桟を揺さぶっているのだが、 やがてその桟は、執拗なまでの力に耐えかねたようにポッキリ折れて、しがみついていた 老婆の痩身を蔵の窓から路面へ放り出した。彼女はいつ替えたか判らぬような、 しかも排泄物をあちこちにくっつけた着物を引きずって、裾を乱して人混みの中に 駆け込んで行くのだ。

 「息子が帰って来た。健太だ! 健太が帰ってきた。ケンタぁっ!」彼女はそう 叫んでいる。息子の戦死に気が狂った彼女は、あれから19年、今日の小旗の波に 凱旋してくる息子の影を見たのであろうか。遠ざかっていくランナーを追って、彼女は やっとたどりついた人混みの中の黒人にしゃぶりついて、なおも叫び続けた。
 「息子を、息子を返してください!」その米兵は何台ものカメラを肩から下げて、 しきりにシャッターをきっていた。そのカメラの吊りひもに白髪を振り乱し、うす汚れた 老婆が何かを喚いているのを見て、その米兵は言葉を理解することもできず、 本能的にその老婆をふり払った。

 老婆は、この日のために舗装がなった路面に鈍い音をたてて頭から落ちた。 驚くべき言葉が老婆の口を衝いて出たのはこの時である。
 「ヤンキー・ゴーホーム」今こそ彼女は正常な意識をとり戻した。頭へのショック は、戦後まもない頃の彼女の記憶をよび戻し、当時、沖縄住民の合い言葉であったものを 最初に思い出した彼女は不運だったとも言えよう。
 「ヤンキー・ゴーホーム」これほど在留米人の嫌う言葉はない。その黒人は憤怒に かられるまま、彼女の胸に足を乗せ踏みにじった。老婆は目を宙にさまよわせ、 両手は虚空を掴んだまま悶絶した。
 「ケンタぁっ!」彼女の絶叫は、平和を讃える歓声にかき消されてしまった。
 怒りが収まらず荒れ狂う米兵を警備の警官が連れ去り、老婆を乗せた救急車が 聖火隊に遠慮してサイレンを鳴らすこともためらうように、その横をすり抜けて行ったのを 知ったのはごく一部の人達であった。
 聖火は日本に平和が訪れたことを報告するために、激戦の地、ひめゆりの塔などの コースを、人々の拍手に迎えられ送られて白煙の行跡を残して行った。
 平和の祭典へ一歩一歩近づいて…

 この沖縄の地を訪問したのは、昭和46年の夏、ユースホステルの旅であった。
 この頃、別編「T子への求婚状」で記した経過を経て、私は今の連れ合いとの結婚を 意識していたので、彼女を誘って一緒に参加した。 今はやりの婚約旅行などというしゃれたものではなかったが、その旅を終えた暑中 見舞い状として、私たちはお互いの親しい人達に、連名で婚約を報告したものだった。

 それから更に28年。この四月から、その沖縄に連れ合いが転勤して、私や娘の 往来が多くなったのも、また一つの縁であろう。

.

  随筆集・目次へ 戻る