☆ 文学青年の頃その5 わが青春の総括譜【生きる】に、29才の断想として、
リーダー論を書いている。 奉仕という言葉は、何故か見せかけのような気がしてならないのは、
自分がひねているからであろう。私が言いたいことは、それを当然の義務行為と
して捉えていたいということなのである。第三者から見た奉仕も、その当人が
「自分は奉仕しているのだ」という意識があれば、その美しさも半減することで
あろう。
これが変な理屈で、そろばん勘定であることに変わりはないが、今の
風潮の中で若い人にあるいは共感を呼び、頷かせることができるとすれば、
それなりの意味はあるであろう。 ☆ 廊下に落ちているチリを見たら、拾った方がいいなという考えは先ず
起きる。その次には、カッコ悪いとか手が汚れるという計算が浮かぶのも
事実である。そこで、私は少々無理にでも「ここで、このチリを見逃したら
、俺はいつまでもこのチリのことを思い出すだろうな」と考えるように努めている。 ☆ 僕に、もし朝の挨拶を返してくれない奴がいたら、僕はその人に
決して負けまいと思うことにしている。 |
その人がいる限り、こちらは負け犬であり、その人の顔を見る度に不愉快
になるだけだから、「いつかはこいつをニッコリさせてやろう」そんな意地を
持つのだ。今日もまた反応がなければ、よし明日は帽子をとって挨拶をしてやろう。
そう簡単にゲームへの移行はできないけれど、憎い奴に会うのが楽しみになり、
その憎い奴のおかげで自分が反省し、磨かれていくとすれば有り難いことでは
ないか。 その憎い奴がニッコリ笑って挨拶をかえしてくれる日には、私の心は感謝に 満ち、技巧ではない真の挨拶ができることだろう。いや、「自分が、そうなれ た時に、はじめて相手も応えてくれる」と言うのが正当だが、私には、こうでも 思わないと、とても自分から一歩退がるという気持が湧かないのだ。 … ともかく、私は真の義務感にも奉仕の心にも乏しく、心底から隣人を
愛せるほどの器量でもなく、せめて自分が納得できる計算で、人並みになろう
と努力しているに過ぎない。 … これは、舞台裏の素っ裸の私の断片なので
ある。 このような計算でしか通用しない現代人気質は淋しいけれど、神仏でない 我らに、教養や理性に求めない、人間社会の潤滑油があるとすれば、今こそ それで応急措置をすべきではないだろろうか。 先日ラジオで、「私には厳しく優しい継母でしたが、お花を習わせようと
する時は、"自分の為だけではないのですよ。よそさまの家の生け花を着物のたもとで
崩した時に、自分でチャンと直せるように身につけておきなさい"…そんな言い方を
して、一通りの事を習わしてくれた母でした」ということを聞いて感動した。 それが、一つの方便であっても、着実な歩みへの足がかりともなり得るのだから…。 今、読み直して汗顔の至りではあるが、何か実利のある教えを求めている 焦りを感じる。 この年になれば、奉仕という行為も又、自己表現の一つであり、 そこに無上の喜びかあることを知るのであるが、あるいは、現代の若い人には、 このように打算的な表現の方法が判って貰えるのかもしれないと、考えてみたりもする。 否、29才の自分と56才の自分が、こうして語り合うことこそ愉快でもある。 |
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