奉仕という言葉

☆ 文学青年の頃  その5

 わが青春の総括譜【生きる】に、29才の断想として、 リーダー論を書いている。
 さすがに、このタイトルには未熟というか若さに 流れている面があると思うのだが、先ずは、ankou青年論を紹介しよう。

リーダー

 奉仕という言葉は、何故か見せかけのような気がしてならないのは、 自分がひねているからであろう。私が言いたいことは、それを当然の義務行為と して捉えていたいということなのである。第三者から見た奉仕も、その当人が 「自分は奉仕しているのだ」という意識があれば、その美しさも半減することで あろう。
 さて、リーダーこそ、この奉仕精神が必要なのだが、「人の世話をすれば 暇もつぶれるし金も要る。」という声をよく耳にする。若い人に、私は、こう 言っている。
「確かに、忙しくもなるが君が会費百円の会員だったら、百円だけの楽しみや 勉強に終わってしまうことが、その百人の世話をすることで、一万円の使い方を 楽しむことができ、その副産物として金や時間とは交換できない"人を喜ばせる 喜び"という尊い体験をすることができるだろう。その喜びは、他に倍する 感動すら伴い、他人の喜びを自分のものとして感ずる、この蓄積が、それからの 人生に大きなゆとりと財産になるであろう。君は決して損はしていないのだ」と。

 これが変な理屈で、そろばん勘定であることに変わりはないが、今の 風潮の中で若い人にあるいは共感を呼び、頷かせることができるとすれば、 それなりの意味はあるであろう。
 私は、これに似たへんてこな理屈をかざして、次のようなこともけしかけている。

☆ 廊下に落ちているチリを見たら、拾った方がいいなという考えは先ず 起きる。その次には、カッコ悪いとか手が汚れるという計算が浮かぶのも 事実である。そこで、私は少々無理にでも「ここで、このチリを見逃したら 、俺はいつまでもこのチリのことを思い出すだろうな」と考えるように努めている。
私の一生はかけがえのないものだから、たかがチリの一つぐらいに思いを残し たくないし、腰をかがめて手を汚す方が、それに較べて儲かることだから、 そのチリをつまんで行くことにしているよ。

☆ 僕に、もし朝の挨拶を返してくれない奴がいたら、僕はその人に 決して負けまいと思うことにしている。

その人がいる限り、こちらは負け犬であり、その人の顔を見る度に不愉快 になるだけだから、「いつかはこいつをニッコリさせてやろう」そんな意地を 持つのだ。今日もまた反応がなければ、よし明日は帽子をとって挨拶をしてやろう。 そう簡単にゲームへの移行はできないけれど、憎い奴に会うのが楽しみになり、 その憎い奴のおかげで自分が反省し、磨かれていくとすれば有り難いことでは ないか。
 その憎い奴がニッコリ笑って挨拶をかえしてくれる日には、私の心は感謝に 満ち、技巧ではない真の挨拶ができることだろう。いや、「自分が、そうなれ た時に、はじめて相手も応えてくれる」と言うのが正当だが、私には、こうでも 思わないと、とても自分から一歩退がるという気持が湧かないのだ。  

 … ともかく、私は真の義務感にも奉仕の心にも乏しく、心底から隣人を 愛せるほどの器量でもなく、せめて自分が納得できる計算で、人並みになろう と努力しているに過ぎない。 … これは、舞台裏の素っ裸の私の断片なので ある。

 このような計算でしか通用しない現代人気質は淋しいけれど、神仏でない 我らに、教養や理性に求めない、人間社会の潤滑油があるとすれば、今こそ それで応急措置をすべきではないだろろうか。

 先日ラジオで、「私には厳しく優しい継母でしたが、お花を習わせようと する時は、"自分の為だけではないのですよ。よそさまの家の生け花を着物のたもとで 崩した時に、自分でチャンと直せるように身につけておきなさい"…そんな言い方を して、一通りの事を習わしてくれた母でした」ということを聞いて感動した。
 人と人とのやはらかいふれあいがね一日も早く全世界に広がるように、 欲望を捨て前任となる前に、悪の塊である自分が納得できて、明日からすぐに でも実行できる教えを、社会教育の一端として見出せないものだろうか。

 それが、一つの方便であっても、着実な歩みへの足がかりともなり得るのだから…。  

 今、読み直して汗顔の至りではあるが、何か実利のある教えを求めている 焦りを感じる。 この年になれば、奉仕という行為も又、自己表現の一つであり、 そこに無上の喜びかあることを知るのであるが、あるいは、現代の若い人には、 このように打算的な表現の方法が判って貰えるのかもしれないと、考えてみたりもする。 否、29才の自分と56才の自分が、こうして語り合うことこそ愉快でもある。

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