T子への求婚状

☆ 文学青年の頃  その6

 【生きる】紹介の最後に、この編を掲載することにした。いわば、人生文集を思い立ったメインは、 29才の断想と結婚を予感しての、この「T子への求婚状」であったろうと思えるからである。  ところが、文集を29才の誕生日に間に合わせたかった僕は、見合いで始まった数回のデートのあと、 T子さん宛に原稿を書く暇もなく、直接ガリ版に向かってこの便りを書いた。
 そういうことで、結局、本人にはこの文集を披瀝する際に、改めて浄書した「求婚状」 を添えた形で渡すことになってしまった。そこで、それからの経過だが…
 先ずは、本文を…

T子への求婚状

 これが、あなたへの最初の便りになりますね。
あの男は、へんてこな字を並べるものだと笑って読んでください。 誕生日に電話をいただいてから、また日が過ぎてしまいました。 あなたの方も卒業式を前に忙しいことと思います。

 およそ僕の悪行ぶりを知っている人が、僕が見合いをしたと知ったら腹を抱えて笑い出すかもしれません。 しかし、所詮熱烈な恋もふとした偶然の出逢いから芽ばえることもありましょうし、その点 では結婚を前提とした出逢いはもっとホットな伸展への可能性が高いとも言えましょう。
 ともかく、一般的な交際のきっかけとして見合いというものを捉えて欲しいと思います。 僕は今まで嫁さんについて、農村に生きていける人、当分共稼ぎのできる人、僕の社会活動を許してくれる 人…この三つの希いを持ってきました。だから、高慢な表現ですが、とても「あなたをしあわせにします」 と言えなかったのです。でも、あの時あなたに申し出たように「退屈するくらしだけはさせない」 それだけは約束できると思います。 退屈しないーその中には、心配する・苦労する・忙しい・ 借金に追われる…  そんなことも含まれているかもしれませんが、”幸福”という漠とした目標よりも、人生観によっては より満たされた生活であるかもしれません。美辞麗句を並べて結婚しても、中味が期待はずれのもので あったなら、親の反対を押し切った恋愛結婚よりもろいことは予測できますから、あえて正直に そう言ったのでした。
 今、初めての便りを書きながら、今まで紹介してきた僕の生いた ちや考えを、もう一度まとめてあなたの決心を促そうと思いつきました。少々長くなるかもしれませんが、 思いつきの口先だけではない、僕らの記念になるようにまとめて記してみましょう。

 私が生まれた昭和十七年二月二十四日、私の出生を待ち望んでいた父は、その日奇しくも佐世保港から、 南方軍団の一員として故国 を離れていたということです。予定の二月初旬を過ぎても生まれない子に、 令状を前にした父は、”えーい、ひきずりだしてしまえ”と悔しがっていたそうですが、 自分の子の顔を見ることなく、二年後には遠いビルマで戦病死したのでした。
 出征の日、父は見送りの方々に立派に挨拶して、手に持っていた 日の丸の小旗の柄で、駅のホームの砂地に大きく”安幸”の二字を示して「生れてくる子が男なら、 この名をつけて立派な百姓にせよ。 女の子ならお前たちがよいように育てなさい。」と祖母と母に言い残し、女二人にあとをまかせる気遣い をしながらも「大丈夫、死ぬために戦争に行くのではないから…」そう笑顔を残して行ったのだそうです。

 父の亡きあと、男のように立ち働かねばならなかった母に代わって、農作業のあい間に、添い寝の子守唄 に言い聞かせてくれた祖母の言葉で、今ではその情景をこの目で見たように想い出すことができるのです。 もの心ついた小学一年の時、祖母も若い山林三町、水田一町の農作業の負担も大きくなり、新しい父を迎え てわが家にもどうやら光が見えはじめました。
 もうこの子にも判るはずだと気をつかった母の再婚でしたが、父を知らぬ子だからと周囲の人から ずいぶん可愛がられて育った記憶は残っているのですが、やはり心の底では父を求めていたのでしょう。  淋しかったわが家に、その祝儀の人の集まりが嬉しくて、頭の上に茶碗をのせ、両手をはなして敷居を 歩いていたら、頭の茶碗を落し割って、隣のおばさんから「今日はおとなしくしてなヨ」とさとされたこと を思い出します。

 やがて、僕にも二人の弟ができるのですが、父は弟と少しも変わらず可愛がってくれて、僕には何の 不自由もない少年時代でした。だから、僕自身では人にまけない父への敬愛の念を持っているつもり ですが、中学時代に「二人の父」と題する作文で”僕には、この血を残してくれた父と「こいつは こんなとこまで似ているわい」とは欠点を許してくれない、その血を正してくれる父の二人を持っている。 僕は他の者以上に幸福だといえるだろう”と書いて何かの賞をもらったことも思いだします。  また、高校を卒え就職したばかりの頃、こんなこともありました。

 日曜日に僕と母と二人で山の下草刈りに行ったのです。その山には、父が鋸をひき、炭を焼いた 炭がまの跡がまだ残り、その切株に 腰を下ろして弁当を開きながら、家族の前ではめったに実父のことを口にしない母がその頃のことを 話してくれました。
 もうそろそろ招集されることだから…と、祖父から小使いに許されたその木炭の売り上げを、 病身の祖父と女のために当時珍しかったリヤカーを買っといてやるんだと、せっせと働いて貯めていた のだそうです。

 いろんな話を聞いて、とても楽しかったその日のことを日記に書いていた夜、階下で珍しく父母の 言い合う声が聞こえてきました。
 バイクで通っている僕に、父がヘルメットを買って来てくれたらしく、母がその値段を聞いて 「誰もそんなものかぶってなかとけ。そんな高いものを買わんでも、他に何かあったろうに 」 といつもの甲高い声で言っているのです。それに対して、いつもはおとなしい父が、 「安幸が怪我したと思えば、安か物じゃないか!」と強く弁じてくれているのでした。  やがて生れるであろう僕のことを考えながら、雑木を倒し、手に豆して植林してくれた実父への追想を 綴っていた僕に、それ以上の愛で見守ってくれている父のことばがわかるや、僕はその感動に身を ふるわせるだけで立ち上がることもできなかったのでした。やがて母が持って来てくれた、 その白いヘルメットを掴んで、僕は声をあげて泣きました。
 大草家の血を絶やすなとオジたる祖父のもとへ六つの時から養子として戻された実父と、 出征までには結婚させようと押しつけられた母と、遠縁にあたるため復員してまもなく この家を継がされた父と…それぞれの夢や青春もあったろうに、ともかく僕を生み育てるために これほどの加護があったことを一日にして知らされた僕は、とめどもなく出てくる涙と戦いながら、 自分こそがしっかりしなければと文に綴り、翌朝は生まれて初めての母への手紙としてコッソリ 食卓の上に残し出勤したのでした。

   やがて昭和41年、幸いにも青年海外派遣団の一員に選ばれましたが、知る人に言わせると 仏の導きとかでビルマにも立ち寄ることになったのでした。
   東南アジアの後進性は実に驚くことばかりでしたが軍部が政権を握るビルマへの入国はきびしく、 我々だけが乗っているガラ空きの 飛行機が空港につき、一歩ビルマの地に降りたったとたん、ずっと慣れてきたつもりなのに 一段と強い熱気にムッと包まれて、眼鏡も曇ったほどでした。

 僕がビルマを訪れたのも父の行年と同じ24才でした。サロンを巻いて歩く人々や金色のパゴダ、 真っ赤なブーゲンビリアの花を見るにつけ、僕がそこできれいだなと思ったときは、24才の父も きっとそこでそう思ったことであろうと考えると感無量でした。
 ビルマでまず最初に案内されたのがラングーン川でした。向う岸もかすむほどの広い巾で、 泥そのものが淀んで流れるような川に、負傷や飢えや病気の幾万という日本兵がズブズブと沈んでは 流れて行ったという話を聞き、私は日本人として何かを考えずにはいられませんでした。そして、 私も父の子だったのでしょう。父が倒れたビルマの水は、僕にも猛烈な下痢を起こさせ一日の休養を 余儀なくさせたのでした。
   また、戦没者慰霊碑には仲間の好意で僕が代表して花を捧げ、祖母が涙ながらにすくってくれた 庭の土と井戸の水をその周辺に撒き 、母がそっと書いた父への便りをその碑の前で焼いて来ましたが、その時の涙はすでに父だけを 偲ぶものではありませんでした。
 碑の前に整列し君が代を歌い、やがてだれ歌うともなく歌ってあげたのが”うさぎ追しかの山、 小鮒釣りしかの川…ふるさと”でした。
 しかし”こころざしを果たして、いつの日にか帰らん…”あの歌詩にまで至ったとき、 十人の代表青年はもう先きを歌うことができなったのです。

 僕たちは、それまでわずか50日の期間日本を離れていたにすぎなかったのです。およそ国を愛す という実感を知らない我々が、ときに自衛隊は違憲であると激論しあうこともあった我々が、 日本を出て半月も経ずして遺骨収集のためマニラに寄港していた自衛艦のマストにひるがえる 日の丸に興奮し、手をふり声をからすほどの ホームシックにかかっていたのですから、この頃はただ家に帰ることばかりを考えていたのでした。 国賓としての待遇を受け、護衛官つきで旅しながら我々はそうでした。
   ましてや、いつ敵に襲われるかもしれない南の空の下で、ジャングルを這い、泥水をすすっていた 先輩たちは、どれほど日本が恋しかったことでしょう。妻や子や親のことを考えながら、 この地に散っていった幾十万の先輩の死は、一部の者のあやまちや悪夢ですますには、 あまりにも大きな犠牲なのです。
   われわれとおなじ年の先輩が、この犠牲に甘んじたのは何のためだったのでしょう。 それは、やがて、日本を背負ってゆかねばならぬわれわれのために他ならなかったのではないでしょうか。
   僕も仲間としゃくりあげながら、もはや子としてではなく、後輩としてこの先輩の心にそうよう 頑張らねば… 本当にそう思ったのでした。

  (つづく)