☆ 文学青年の頃その6
【生きる】紹介の最後に、この編を掲載することにした。いわば、人生文集を思い立ったメインは、
29才の断想と結婚を予感しての、この「T子への求婚状」であったろうと思えるからである。
ところが、文集を29才の誕生日に間に合わせたかった僕は、見合いで始まった数回のデートのあと、
T子さん宛に原稿を書く暇もなく、直接ガリ版に向かってこの便りを書いた。 T子への求婚状
これが、あなたへの最初の便りになりますね。
およそ僕の悪行ぶりを知っている人が、僕が見合いをしたと知ったら腹を抱えて笑い出すかもしれません。
しかし、所詮熱烈な恋もふとした偶然の出逢いから芽ばえることもありましょうし、その点
では結婚を前提とした出逢いはもっとホットな伸展への可能性が高いとも言えましょう。
私が生まれた昭和十七年二月二十四日、私の出生を待ち望んでいた父は、その日奇しくも佐世保港から、
南方軍団の一員として故国
を離れていたということです。予定の二月初旬を過ぎても生まれない子に、
令状を前にした父は、”えーい、ひきずりだしてしまえ”と悔しがっていたそうですが、
自分の子の顔を見ることなく、二年後には遠いビルマで戦病死したのでした。
父の亡きあと、男のように立ち働かねばならなかった母に代わって、農作業のあい間に、添い寝の子守唄
に言い聞かせてくれた祖母の言葉で、今ではその情景をこの目で見たように想い出すことができるのです。
もの心ついた小学一年の時、祖母も若い山林三町、水田一町の農作業の負担も大きくなり、新しい父を迎え
てわが家にもどうやら光が見えはじめました。
やがて、僕にも二人の弟ができるのですが、父は弟と少しも変わらず可愛がってくれて、僕には何の 不自由もない少年時代でした。だから、僕自身では人にまけない父への敬愛の念を持っているつもり ですが、中学時代に「二人の父」と題する作文で”僕には、この血を残してくれた父と「こいつは こんなとこまで似ているわい」とは欠点を許してくれない、その血を正してくれる父の二人を持っている。 僕は他の者以上に幸福だといえるだろう”と書いて何かの賞をもらったことも思いだします。 また、高校を卒え就職したばかりの頃、こんなこともありました。 |
日曜日に僕と母と二人で山の下草刈りに行ったのです。その山には、父が鋸をひき、炭を焼いた
炭がまの跡がまだ残り、その切株に
腰を下ろして弁当を開きながら、家族の前ではめったに実父のことを口にしない母がその頃のことを
話してくれました。
いろんな話を聞いて、とても楽しかったその日のことを日記に書いていた夜、階下で珍しく父母の
言い合う声が聞こえてきました。
やがて昭和41年、幸いにも青年海外派遣団の一員に選ばれましたが、知る人に言わせると
仏の導きとかでビルマにも立ち寄ることになったのでした。
僕がビルマを訪れたのも父の行年と同じ24才でした。サロンを巻いて歩く人々や金色のパゴダ、
真っ赤なブーゲンビリアの花を見るにつけ、僕がそこできれいだなと思ったときは、24才の父も
きっとそこでそう思ったことであろうと考えると感無量でした。
僕たちは、それまでわずか50日の期間日本を離れていたにすぎなかったのです。およそ国を愛す
という実感を知らない我々が、ときに自衛隊は違憲であると激論しあうこともあった我々が、
日本を出て半月も経ずして遺骨収集のためマニラに寄港していた自衛艦のマストにひるがえる
日の丸に興奮し、手をふり声をからすほどの
ホームシックにかかっていたのですから、この頃はただ家に帰ることばかりを考えていたのでした。
国賓としての待遇を受け、護衛官つきで旅しながら我々はそうでした。 |